彼らの賭けを批判できるだろうか?

電力問題からではなくて、「産業誘致」としての原発議論についてのお話。


原発と離婚できない福島 住民の生活とあまりにも深く絡み合った原発産業(1/5) | JBpress(日本ビジネスプレス)
面白いお話です。
つまり「原子力発電所を地方に押し付けるなんてもってのほかだ!」と訴える人たちは、まぁそれはそれは今でも沢山いらっしゃいます。しかし議論において真に重要なのはそんな美しくてどうでもいいお言葉ではないんですよね。
むしろ本当に彼らのことを考えるのならば、こう聞くべきなんです。
「当の自治体が『それ』を望んだ場合、私たち余所者が『それ』を阻止するのは正しいことなのだろうか?」と。


──批判しにくいですか。

 「だって(お金を)もらってっぺ? 片棒担いでいるようなもんだ(笑)。産業がないところに原発が来ると急に豊かになるんですよ。それも、普通の発電所よりずっと異常な金額が落ちる。うすうす気付いてますよ」

原発と離婚できない福島 住民の生活とあまりにも深く絡み合った原発産業(1/5) | JBpress(日本ビジネスプレス)

私たちは彼らをどう見るべきだろうか?
経済的に追い詰められた末に電力会社の『甘い罠』に引っ掛かってしまった被害者と見るべきなのだろうか。あるいは上記自嘲する住民のように「片棒を担いでいた」と見るべきなのだろうか。


よくある「地方の衰退」という議論において、原子力発電所の誘致はまるで夢のような「産業誘致」とほとんど同じ効果をもたらしているんですよね。一定のリスクと引き換えにより確実なリターンをもたらすという点では、真っ当にやるよりもずっと確率は高いとさえ言える。
リスクとリターンを判断した上で、彼らはその選択を行なっている。
もちろん余所者である私たちは「彼らの判断は間違っている」とか「彼らは騙されている」とか適当なことを言って彼ら自身の選択を批判することはできる。しかしだからといって現実的な代替案を何も提示できないんですよね。産業誘致とか観光誘致とか、そんなことできるものならはじめからやってるというのに。
それができないからこそ、彼らはその原発という『最後の賭け』に至ってしまっているというのに。


その意味で彼らに対して何もできない私たちよりも、弱みに付け込んでいる東電、の方がまだしも現実に地方住んでいる人びとに対して誠実であるとさえ言える。だって電力会社は(それなりのリターンを提示した上で)選択肢を現実に提示しているんだから。彼ら地方の衰退に対して、何ら効果的な代替案を提示もできないくせに、ただただ彼らの判断が間違っているとのたまう私たちよりもずっと。
積極的に助けもしないくせに批判だけはする、それって「黙っておまえはそこで乾いてゆけ」と何が違うのか、と思ったりします。
皆さんはいかがお考えでしょうか?