賢しさと純粋さがもたらすもの

またもや宗教のもたらす二面性のお話。


イスラム神学校は過激派の温床か? - himaginary’s diary
まぁありそうなお話ですよね。

この実験結果からは、イスラム神学校は過激主義と憎悪の温床というよりは、むしろ利他主義と社会の他の階層との信頼を促進しているように見える。

イスラム神学校は過激派の温床か? - himaginary’s diary

(特に日本でも根強い)新興宗教などからくるネガティブなイメージが先行しがちではありますが、そもそもこうした機能こそが本来ある『宗教』という装置がもたらすものであるわけで。以前も書いたお話*1でもあったように、彼らの原理主義的で過激な排他性の存在は、逆説的にその内部に対する(過激な)統合性をも同時に意味しているんです。
つまり宗教という装置が本来もたらすものは、既存の枠組み(血族や部族や人種や地位・階級など)を超えた信頼性を醸成し担保することにある。そうして『宗教』というある種のイデオロギーによって、本来あった枠組み以上の共通の価値観を持った社会集団を維持することができるんです。故に彼らはそうした古い枠組みを超えた人類全体をも射程にいれた「世界規模の」普遍的な価値観・道徳であることを、しばしば、目指したわけです。


イスラム教やキリスト教などのかつての世界宗教が目指した、共通した価値観と道徳を持つことによるお互いの信頼感や利他行為を醸成することによる、隣人同士の世界平和が実現できると善意溢れる彼らの一部の人びとは心から信じていたわけです。まぁその意味で現在の先進国にあるような自由主義のもつ教義とは、目的にしろ手段にしろ大して違いはないんですよね。彼らは誰もが「同じ教義を信じることによって」結果的に争いがなく助け合いの共同体社会が実現できると心からの善意で信じている。

リベラル系大学の学生はイスラム神学校の学生の信頼性を過小評価し、イスラム神学校の学生はリベラル系大学の学生の信頼性を過大評価する傾向が見られた。

イスラム神学校は過激派の温床か? - himaginary’s diary

なのでこうした結果が出るのも何ら不思議ではないんですよね。
リベラル系の学生はその現実的な合理的判断により(裏切られた時の被害を想定することによって)信頼性は過小評価されることになり、神学校の学生はまさに宗教によって担保されている(と信じているので)信頼性を過大評価するに至っている。それこそが両者の信頼性への予測に対する差異であり、そしてまた同時に意味しているものは『裏切られた時の怒りの強さ』でもあるわけです。
強く信じている方が裏切られた時のダメージは当然大きく出ることになる。それは失ったものの大きさであるし、裏切られたという怒りの強さでもあります。
そうして利害を重視するリベラル系の人びとはあらかじめ信頼の失敗を担保する。裏切られた時の被害を少なくする為に。故に、傷つかないことを目指す彼らはこう教えるわけです「価値中立であれ」と。


確かにそれは「賢しさ」であり、
確かにそれは「純粋さ」であります。


どちらが人生おいてより重要かなんて、僕なんかにはとても断言なんてできない。