顔の見える『特定された生命価値』から、顔の見えない『統計上の生命価値』へ

時の流れって残酷です。



放射線と発がん、日本が知るべき国連の結論  :日本経済新聞
少し話題になってた放射線をめぐる国連の結論について。ポジショントーク云々は別としても、しかし今というタイミングだからこそ、という面はあるんじゃないかと思います。

■浪費される膨大な資金

 現在、表土や落ち葉の除去に費されている膨大なムダな資金(ニューヨークタイムスの記事参照)は、深刻な汚染状況にある福島原発付近での最新技術を使った除染に集中投資すればよい。

 0.1Sv(10 rem)以下の被曝に誤ってLNT仮説を当てはめたことによる経済的・心理的負担は、ただでさえストレスを感じていた日本国民には著しく有害で、今後もそれを続けることは犯罪行為といえる。

放射線と発がん、日本が知るべき国連の結論  :日本経済新聞

個人的に見るべきところだと思うのはやっぱりこの辺りかなと。結局のところ、バランスと費用効果こそが重要であるわけで。そんな無制限に(相対的に)小さな――ありとあらゆるリスクまで勘案するわけにはいかないのであります。
米政府「請願コーナー」への「デススター建造を」への回答〜国家の「ジョーク力」再再考。 - QUIET & COLORFUL PLACE- AT I, D.
それこそ敵性宇宙人がやってきた時のデススター建造や、あるいはゴジラが誕生した時の防衛対策費用を「ありえない」「金の無駄だ」とあっさり切り捨てるように。もちろんそれらは論外であり、極論はありますけども、しかし結局やっていることは一緒なんですよね。他のリスクと比較して、最も費用対効果が良いところに使う。
だってその税金=お金は有限なのだから。
それこそ私たち自身でも念仏のようによく唱えていますよね。「ムダヅカイヤメロムダヅカイヤメロムダヅカイヤメロムダムダムダヤメヤメ」まるでそれさえ唱えていれば極楽へと至れるかのように。専修脱無駄。
原発政策の是非や、東電の能力についてはともかくとして、しかし税金という有限のリソースを如何に投下するかはやっぱり別の問題であるわけで。以前の日記*1でも書きましたけども、つまるところ、私たちはその政策を評価するにあたってその効率性を無視するわけには決していかないのです。
その一単位辺りの税金投入で一体何人の人間を救えるのか?
人の命はおいくら万円?


ここに私たちのジレンマがあるわけです。
税金の使い道には出来るだけ効率を重視したいけれども、しかしそうは言っても、生命の問題では特にそう簡単に「金の問題だから」と割り切れるものではない。だからダブルスタンダードに走ってしまう。見知らぬ人間へ使われる税金には反射的に怒りを覚えてしまうけれど、しかし知っている人間の為には幾らでも払える。だって身内が亡くなるのは見過ごせないから。厳然として存在する命の重さの差。
何故そんな無神経で不道徳なことが起きるのか?
――ノーベル経済学賞を受賞したトーマス・シェリング先生*2曰く、ほとんどの私たちは『統計上の命』と『顔の見える命』を区別しているから、だそうです。
(例えば社会保障や交通事故対策整備など)前者にはその政策としての効率性を追求するけども、しかし後者はそんなもの目にもくれない。それは身内だったり、あるいは、マスコミによって大きく報道された『個人』だったり。私たちは論理だけでなく感情でも生きているから。揺れ動く乙女心的な何か。
かくして私たちは「税金の無駄遣いやめろ!」と批判する一方で、もう一方では「幾ら掛かってでもいいから救えるだけ救うのだ!」なんて真逆のことを叫ぶのです。
そう、少なくとも、その相手の顔を覚えている限りは。


それを合理性や効率性のみを追求した冷酷さだとか批判することはやっぱり出来ますけども、しかしそれ無しにこの民主的で複雑な現代社会を維持存続させていくことはやっぱり不可能なわけです。私たちはどこかで何らかの基準によって線を引かなくてはならない。
おそらく徐々にこうした議論はやはり主流になっていくのだと思います。身も蓋もなく言えば私たちは徐々に原発事故そのもの、というよりはむしろその「衝撃」を忘れつつある、あるいは立ち直りつつある。今尚苦境にある被災者の方々は別ですが、しかしもうすぐ2年経とうとしている現在、あの大災害を報道で連日見せられた人たちは大部分日常へと回帰している。
最早相手の顔を忘れつつある私たち。
顔の見える『特定された生命価値』から、顔の見えない『統計上の生命価値』へ。


時間がもたらす、残酷さと、癒しと。やっぱり良い面悪い面合わせて、今はその移行期なのかなぁと。