日本の『多文化主義』の最前線

まぁどちらにしても気の抜けるお話ではありますよね。


朝日新聞デジタル:朝鮮学校への補助金見送り 大阪府、訪朝団案内を問題視 - 政治
「総連と一線」疑問、朝鮮学校に補助金支給せず : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
ということで結局中止になってしまったらしいです。
差別だの何だのとお怒りになる方もいらっしゃるかもしれませんけど、個人的には公費で補助する以上その中身で判断する、ということ自体はやっぱりやるべきだと思うんですよね。もちろんその判断基準自体については当然議論があって然るべきですけど。しかし現状の日本の議論において、それが反対にしろ賛成にしろその基準がいわゆる「反日教育が云々」とか言っている辺りは、まぁなんというか本来の主眼である子供たちは見事に置き去りにされているよなぁと。


以下、この辺りの話題については地雷を踏んだらすごいメンドクサイので一般論として申し上げていますモード。



さて置き、こうした民族学校や宗教学校の本来の役割とは、そうした各個人それぞれの文化的自由を確保するためにこそあるわけですよね。まったく選択肢に上らないよりはその中に選択肢の一つとしてあるべきだと。確かにその通りです。故にそうした民族教育や宗教教育はやっぱり認めるものではあるのでしょう。
しかしそうした(特に精神的に未成熟な幼年期における)学校教育はむしろ全く逆に、自由の抑圧と紙一重になることもまたしばしばあることを認識しなければいけないわけで。つまり、そうした学校教育が子供たちの将来における選択の自由を奪うような抑圧的・一方的な教育しているのであれば、そんな所に公費を投入するのは間違っている、という風に当然指摘されるべきなんです。異なる生活様式を認めない、という不寛容について、それを国がやろうが個人がやろうが学校がやろうが、どれも同様に批判されるべきでしょう。
本来学校教育とは子供たちの視野を広げ、そしてまたより豊かで安定的な社会を構築するための所謂『社会関係資本*1』の基礎を醸成する為のものであるわけで。しかしそれとはまったく逆に(伝統を継承させるという名目で)子供たちの将来の選択肢を狭め、そしてそれ以外の社会から孤立し隔離されることを促進してしまうような教育について、それこそ私たちは「文化的自由の為に」「子供たちの為に」という名目で強く反対すべきなんです。
アマルティア・セン先生はその著書『アイデンティティと暴力』の中で、そうした教育の役割――理性的な判断に基づいて当人のアイデンティティを選択させるようにすること――が重要であると繰り返し述べています。故に他者から一方的に押し付けられた(運命付けられた)アイデンティティなんてものは幻想であり、そうではなく自ら理性的な判断としてアイデンティティを選択することこそが暴力の生まない相互理解にとって重要であるのだと。

まだ論理的思考や選択の機会が十分に与えられていない子供たちを、一つの特殊な分類基準によって柔軟性のない枠組みのなかに押し込めて、「それがあなたのアイデンティティで、この先も得られるのはこれだけですよ」と告げるのは公平ではない。*2

結局そういうお話ではないのかなと。その意味では公費補助を使うからこそむしろより積極的に「子供たちの為に」そんなことを許すべきではないのです。だから公費補助を人質にしてこうして影響力を発揮しようとすること自体はむしろ良い方向ではないかなぁと個人的には思っています。今回の件がそれに見合っているかどうかは以下略。
ちなみによりめんどくさくなりそうな議論としては、じゃあそれを完全に個人の勝手でやるのはどうなのかと言われるとものすごく困ってしまいますよね、けどまぁそれはまた別のお話。



ともあれ、今回の件について「彼らが反日教育やっている!」とか「朝鮮学校を差別すべきでない!」とか、そのどちらの側にしても本来の学校教育で重視されるべき子供たちの将来は見事に置き去りにされているよなぁと生戦い気持ちになってしまいます。まぁ多文化社会の先進国たるイギリスでも議論になっているこうしたお話――多文化主義と小さな単一文化主義たちの区別――について、後進国たる私たち日本じゃそれはまぁあんまり大した議論にはなりませんよね、と言っては身も蓋もありませんけど。
それは反日だの差別だので判断するものではないんじゃないのかと。