外交安保が選挙争点になる日

昔から言われている事ではあるんですけど。勿論、日本だけじゃない、他所の国でも変わらない「外交は票にならない」という話。


これが語られる時は、大抵の場合それはネガティブな論調でなされる。まぁそれはそうかもしれない。つまりそれは選挙民である国民の無関心を意味するし、そして被選挙民である政治家の無関心を意味してしまうから。
私たちは殆ど常に、選挙では外交安保よりも重要だと考える何かを優先させてきた。
それは一つの理想郷ではある。外敵の事を全く心配せずに自分達の内側の事だけを考えていればいいのだから。もし本当に考える必要がないのなら、それは確かに合理的だと言える。そしてその意味で、いわゆる『アメリカの平和』の下に居る私達は、確かにその事を考えずに済んできた。


では今後もそうなるのだろうか?


結局の所、(今もなんとか継続する)そんなパクス・アメリカーナのようなアメリカの覇権状態を生み出したのは、アメリカの努力と私たちの無関心である。それを今更になって批判するのは後の祭りでしかない。冷戦が終わった後に、現実的な範囲での、新しい国際社会の秩序をどうするかを真面目に考えていたのは彼らだけだったのだから。私達はただそれを、積極的にしろ消極的にしろ、見ていただけだった。
そうして今になって「アメリカは傲慢だ」だと言う批判する事は、実際その通りではある。しかしそれを言う事はつまり、そんな「アメリカの傲慢」に代わる何かを考えなければいけない。
勿論これまで通りアメリカに追従する事も、逆にアメリカに背を向ける事も、メリットもデメリットもどちらも存在する。
重要なのは、もし変化を以って継続性に挑戦するのなら*1、その変化とは何かを説明する責任とそれが是認される必要が生じるという事である。そしてそれを私たち選挙民が認めるか認めないかを決めなくてはならない。


それまで継続してきた何かに挑戦しようとする試みは、概ね選挙によってその賛否が決められてきた。例えば小泉首相時代の郵政選挙であったり、あるいはオバマ大統領の医療保険改革法案であったり。そしてだからこそ「外交安保が票にならなかった」と。
現代の日本において、現状追認以外の選択肢が外交や安全保障の分野でも果たして生まれるのだろうか?

*1:というのが普通のリベラルの存在意義