有限である善意

分野は違えども根本の悩みは一緒なお話。


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まぁ詳細はリンク先を見てくれれば良いとして、結局の所「個人の善意によるシステムの限界」という辺りだろうか。
彼らは、単純な善意やあるいは単に面倒を避けようとして、個人の意思で行動を起こした。しかしその行動は(いやらしい言い方をすれば善意のただ乗りが増えた事によって)規模が大きくなり、彼らの善意だけでは賄いきれない程になってしまったと。
もちろん個人の善意は賞賛されるべきものであり尊いものである。しかしそれは万能などでは絶対にないし、むしろその善意の総量やリソースの点からも「限界」というのは案外近いところにある。だからこそ、私たちの社会は労働と報酬(+精神的満足)の取引で多くが成り立っているわけだし。
そんな個人の善意に依っているシステムを維持しようとするのなら、彼らに金かやる気をより持たせるしかない。


結局の所、よく誤解されがちなのは、そんな彼らの善意は一見タダであっても無限ではないという事である。
そうした善意は彼らの「持ち出し」で維持されていて、で、もし使い過ぎて枯れてしまえばそこでおしまいである。そうさせない為には、利用者である人々が配慮して金ややる気を維持なりで補充していかなければならない。


他ならぬ私たち自分自身が証明するように、彼らの善意も無限ではないのだから。