問題は「誰がその資質を問うのか?」です

批判されない権力のお話。


http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20101124-OYT1T01260.htm
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc&k=2010112500121

尖閣諸島沖の中国漁船衝突を巡る映像流出事件で、神戸海上保安部所属の巡視艇「うらなみ」主任航海士だった海上保安官(43)が警視庁と東京地検の調べに対し、映像を動画投稿サイト「ユーチューブ」に投稿するより前に、映像を記録した外部記憶媒体のSDカードを米ニュース専門局「CNN」の東京支局(東京都港区)に郵送した、と供述していることが捜査関係者の話で分かった。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20101124-OYT1T01260.htm

当時から陰謀論的に言われていたお話ではありますよね。まさかソースがつくとは。
まぁ色々批判されたり擁護されたりしていますけど、この件をもってマスコミ全体を批判・擁護するのはちょっと違いますよね。個人的には以前書いた、ディルバートの法則にもある「記者はいつも選択を迫られる。労を惜しまずネタの裏を取るか、人から聞いた話をそのまま書くか。いずれにしても給料は同じなのだ」なお話が全てだと思います。
つまり今回のCNN(ぶっちゃけほぼ朝日らしいけど)だってそれが怠慢なのか意図的なのかは別としても、結局彼らの考える所の、給料分の仕事をしているに過ぎない。私たちの多くがそうであるように、彼らだっていわゆるサラリーマンでしかないから。手間を考えたら怪しいSDカードなんて廃棄するのも解らない理屈ではありませんよね。そこには当然のように「ジャーナリストの理念」に忠実な人も居ればそうでない人も居ると。彼らにとってはどちらにしても給料は一緒なんだから。私たち自身が証明するように、彼らの持つ職業意識の差にだって何も変わりはない。


さて置き、様々な職業倫理において、特別に程度の低い行為をしてしまった人は当然それを批判されるわけです。政治家としての資質が問われたり、教師としての資質を問われたり、警察官としての資質を問われたり、医師としての資質を問われたり、そしてもっと根本的に社会人としての資質を問われたりする。偶に「風の息吹を感じ取れなかった」というだけで資質を批判されたりしますけど。
それらは一般的にマスコミの皆さんによってなされる。まぁそれは確かにマスコミとしての存在意義ではあるんでしょう。
その是非はともかく、私たちの資質はまさにジャーナリストの皆さんが保証してくれる。
ならば一体そのマスコミ自身の資質を誰が問うのか?
今回のようなマスコミの不祥事とも取れる事例において、ただその問題を批判するだけでは何の意味もないんですよね。それは私たち自身にも多少は身に覚えのあるはずの失敗例の一つでしかないから。重要なのはそうした不祥事を、誰が、どうやって、批判すればいいのか。本人たちは自浄作用があるなんて言ってきたわけだけど。
その特別にひどい例である(彼らの言葉を借りれば)「資質を問われるような行為」を目の当たりにした際、一体私たちに何ができるんでしょうね?