歴史を再び動かそうとする人びと

ノーベル平和賞に対する中国さんの一連の行動、を見て考えたお話。


ノーベル平和賞授賞式、「招待国の大半が出席」 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
ノーベル平和賞、「中国に恥をかかせる企て」と国営紙社説 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News
ということで欧米諸国の皆さんからは中国に対して色々と言われていたし、逆に中国自身も色々やっていつになく盛り上がったノーベル平和章ではありました。
中国が出席するべきではないと要請しそれを受諾したのが65ヶ国中17ヶ国とおよそ4分の1位だったり、受賞者が代理人含めて会場にさえ来ることができなかったのがナチス時代の受賞者以来でそれをあからさまに対比させられてしまったり、ノーベル平和賞の対抗としてよくわからない独自の平和賞を立ち上げてみたりと。まぁほんと端から見てる分には面白いお話でした。


さて置き、こうした構図を見ていて思い出したのが個人的にも好きな政治学者である、フランシス・フクヤマさんの『歴史の終わり』*1というお話。
ここでフクヤマさんの言う『歴史の終わり』とはつまり「最終的にリベラルな民主主義よりも優れたものは現れないだろう、故に政治的なイデオロギーを巡る歴史(闘争)も最早終焉するだろう」というある種の終末論的なお話であります。まぁ色々賛否あるお話ですけど、少なくとも冷戦以後から中国の本格的な台頭までは、確かにそういう面はあったと僕も思います。
こうしたフクヤマさんの主張への反論として、例えば9.11の時のアメリカへの攻撃を以って「未だ歴史(闘争)は終わっていないじゃないか」などと批判されたわけだけども、しかしそれってやっぱり本人が抗弁*2するように、確かにそういう闘争の話ではないと思うんですよね。実際あれは政治的な闘争なんかじゃなくて単なるテロリズムでしかなかったわけだから。


しかしそんな9.11の時とは違って、本当に『歴史の終わり』の危機――歴史がまだ終わったとは言えない状況、が生まれつつあると思うんです。今回の中国の動きによって。
つまり、またリベラルな民主主義陣営と対決するべく中国の一党独裁のような勢力が挑戦者として名乗りを挙げた、と。それはこれまでもあった単なるバラバラの少数勢力などではなくて、まさに中国の要請に応えた17ヶ国にあるように、少なくとも一定以上の勢力が結集する可能性を示して見せたように。あくまで可能性の話ではあるけども、しかしかつてソ連の元に対抗陣営として結集していた国家たちが再び次は中国の名の元に集まるかもしれない、という可能性を。
そう考えると今回のノーベル平和賞から続く一連の騒動って、以前の9.11の時よりもずっと『歴史の終わり』論の危機なんじゃないかと思うわけです。勿論それは少しずつ水面下で進行してきた国際関係の流れではあるんでしょうけど、しかし今回のノーベル平和章の問題によってそれは明確に表出するようになった。中国は確かにリベラルな民主主義勢力へ対抗する意思があり、そしてある程度までの能力も備わっている。


今回の一連の騒動についてフクヤマさん風に言えば、「彼ら(中国)は終わってしまった歴史をまた再び動かそうとしている」のではないか? と。