そこは近代政治哲学者たちが300~100年前に通り過ぎた場所だ

ということで、宗教じゃなくて、むしろ政治思想史のお勉強を始めれば良いと思います。でも92歳か……いや、いけるいける!(根拠無し)
以下いつものマジレス日記。


http://hamusoku.com/archives/3564853.html

1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/04/14(水) 23:17:52.86
神様の心に副うようすれば救われるのに

http://hamusoku.com/archives/3564853.html

まぁ言いたいことは解らなくはない。如何にして人は救われるのか? という命題について。それについて「神様の心」に従えば良いと彼は主張する。
何故多くの人が「神様の意に反することをしているのか?」って、もし仮にそうしたものがあるとして、しかしその「神様の心」というものが一体何なのか定義する事が私たち人類には荷が重すぎたからです。かつてのリベラル思想史における偉人たちがついにその努力を放棄して、絶対的な善(神様の意)ではない、手段の正当性という「正義」の模索に落ち着いたのは、ぶっちゃけてしまえばそうした所に行き着くわけで。
何故か引用先では宗教論になっていますが(まぁ政治哲学史の変遷過程としては結構正しいと言えなくもない)、それでも無邪気にその「神様の心」を追い求めるのは宗教の姿としては確かに正しいのかもしれない。けど何故それが廃れてしまったのかってそれで世界を変えることができなかったからなんですよね。いやまぁそんな普遍的な価値観の浸透こそが宗教の究極の目的とも言えるんだけど。
しかし繰り返すと、それはもう、みんな諦めちゃったんです。
むしろその事について考えすぎて頭がアレになっちゃった人も居る位です。近代の人はやっぱすげーな。


さて置き、後半まで読むとこの方は、

あなたは何によって救われますか?
あなたはどんな道を歩みますか?

それが宗教の問題です

http://hamusoku.com/archives/3564853.html

なんてことも仰っているわけで。それって現代ではコミュニタリアンに近いよなぁと思います。どちらかというと、共通善の模索、という試み。その意味で「善」の追求を放棄しない反リベラルなポジションとしては結構近いものがあるのかもしれない。
まぁその意味するところって、もうそれが「宗教の問題」では無くなってしまったということだと思うんですよね。今日では個人主義功利主義共同体主義等々によって為されているように、神様の心という絶対的な何かを模索する仕事は最早宗教の仕事ではなくなってしまった。その意味で彼の言っていることに時代遅れ感を抱いてしまう人の気持ちも解らなくはない。
だからといって宗教が不必要になったわけでは勿論なくて、どちらかというと宗教はより最高の善性の提供ではなく、最低限の共通価値観を提供するべきものとして存続していくだろう、なんて言われている*1


結局この方の発言に対する反応も、その部分で賛否が分かれると思うんです。
「神様の心」とは私たちが最低限持つべき共通の道徳・価値観・倫理観なのか、それとも最高善・絶対善としてそれを設定するべきなのか。前者として受け取った人は少なくとも消極的には賛成するだろうし、しかし後者として受け取った人は現代人として当然のように反発してしまう。
この人はどちらのことかはっきり言及していないので真意はさっぱりなんですけど。

*1:フランシス・フクヤマ著『「大崩壊」の時代』