「政治主導」の果てにあるもの

今盛り上がってる消防庁への圧力のアレ*1もそうなんですけど、今回の大地震に対する現政権の対応や前政権の失態の根本にもある「政治主導」の目指す所、なお話。


「弱く虐げられている人々を救う」などの理想を掲げる人々が権力に固執してしまう理由 - maukitiの日記
以前も書きましたけど、まぁなんというか古今東西リベラルな理想を追い求める人びとの職業病ではあるんです。大きな理想を抱けば抱くほど、より権力に囚われてしまう。だから簡単に「速やかにやらなければ処分する」という発言が出てきてしまう。
彼らが目指しているのは、弱肉強食のような自然状態ではなく自らの手で介入することによって、「神の手」ならぬ「人間の手」によって、弱者救済や平等を達成しようとする。素晴らしい理想の是非はともかくとして、つまり「人間の手」とは常に権力によって為されるわけでありまして。だからそういう人たちがよく「政治(権力)主導」的なことを言うのは実際あんまり珍しい事でもないんですよね。


だって彼らはまさに、敢えて政治家を志し、敢えてその理想を実現する道を選んだんだから。もちろん彼ら自身は認めないだろうけども、しかしそれを別の角度から見れば「(理想の為に)権力を行使すること」こそを望んでいる。もし何の野望も持っていなかったら彼らは平凡な一市民として人生を送っていたんだろうけど、しかし彼らはそうではない。彼らは敢えて望んでいる。
彼らは自らが政治権力を行使することによって理想が多少なりとも実現する、と信じている。だからこそ、しばしば、その自らの権力の絶対性や無謬性にまで確信の域を広げてしまう。権力に過度の万能感を抱いてしまう。目的が正しいのだから、その手段も正しいのだと盲信してしまう。よくある「権勢欲に囚われてしまう」パターンに陥ってしまう。
もちろんそれが失敗しなければいいんだろうけど、しかし、歴史が教える政治史ってまぁ大抵失敗ばっかりでしかない。そして彼らも多くの場合でその運命から逃れられない、失敗した「政治主導」の歴史から。


またよく誤解されているのは、弱者救済や平等というリベラルな理念を追い求める人だからその権力欲も薄いと、その掲げる理想故に思われてしまわれがちなんですけど、むしろ全く逆なんですよね。彼らはその目的の為に通常以上に、悪く言えば、権力の亡者にならなければならない。かつて人類史上最大の「人間の平等」を志向した共産主義国家たちが、異常なほどの内部権力闘争と絶対的な国家権力を目指したのは偶然ではない。
善意「こそ」が人を殺す - maukitiの日記
勿論それが、単純な悪意によってのみ為されたという訳では当然なくて、むしろそれは彼らの善意故に。


いやぁ「政治主導」って本当に茨の道ですよね。とてもそんなこと気軽には言えない位には。