「非常時でも秩序だった日本人」の表と裏

みぞうのてんさいにもあばれたりしないすばらしいにほんじんのおはなし。


http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5679

 壊滅的な被害に遭った大船渡港の住民たちが、破壊された家からモノを盗んだ容疑で4人が逮捕されたという噂を聞いてうろたえていること自体、日本人が自らに課している社会秩序の高い基準を示すものだ。

 「ここはいい町だと思っていたのに」と、ある住民はこぼす。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5679

ということで今回の震災も(一部を除いて)とりあえずは最悪の状況は脱しつつあり、段々と被災地での火事場泥棒的な犯罪等々色々言われてくるようになりました。しかしそれでも尚、概ね世界の中でもトップクラスに日本はそのような社会秩序を維持しているわけでもあります。勿論それは迅速で整備された復旧支援と言う要素も当然あるものの、上記発言にもあるような伝統的な共同体によってそうした秩序の裏付けとなっている面も否定できない。
それは、自分たちの町・村・集団にはそんな(悪い事をする)人は居ないだろうという信頼感*1であり、他の仲間の評判こそを気にする身内志向*2であり、自分自身だけでなく他者にまでそうした道徳を半ば要求するかのような規範意識*3によって。


でもそれって震災以前からよく言われていた、「同調圧力」や「閉鎖的」や「ムラ社会」や「島国根性」という日本人的発想のほとんどそのまんま裏と表でもあるんですよね。勿論そうした社会秩序と完全に表裏一体というわけではないんだけれども、しかしそれでもかなりの部分が同じところに原因を求められる。


普段はそうした日本で(未だに)よく見られる伝統的な同調現象や閉鎖性を非難するくせに、しかしこうした場合ではそれを称賛してしまう。どっちも本質的には同じものが提供しているものなのに。
他の例だと、普段ボロクソに言いつつも、すごい支援してくれている自衛隊・米軍ありがとうな構図に近い。そんな日本人の社会秩序のお話でした。
無くなって欲しいのか残って欲しいのか、えーい、どっちやねん、という感じですよね。

*1:ゲーム理論における「反復型でない一回限り」の囚人のジレンマを解決する為に必要なのは『感情』であるとされる。つまり共通性、友人・知人・同郷人・同じ職業・同じ民族、等による何らかの安心感という感情がそれを助ける。

*2:プラトンの『ギュゲスの指輪』が教えるように、我々が求めているのは「誠実であること」そのものではなくて「誠実であるという評判」である。

*3:私たちが規範・道徳に従うのは合理的理由だけではない。守る事そのものに意味を見出す。故に自分がそれを守らなかった場合は何となく罪悪感を覚えるし、他者がそれを守らない場合に何となく怒りを感じる。そうして私たちはしばしば規範の為の規範という『メタ規範』を周囲にまで強制してしまう。