何故私たちは原発をより恐れるのか?

ということで「人間ならば当然否定するべきだ」なんて説明にケチをつけるだけではつまらないので、「何故私たちは原発を恐れるのか?」について適当に書きます。


例えばこういう記事もあって、
放射能は妖怪ではない 「目に見えない恐怖」を無用に恐れるな!(1/7) | JBpress(日本ビジネスプレス)
まぁこうした感情もそこまで理解できない話ではないんですよね。それこそ妖怪「ほうしゃのう」の如く何となく恐れてしまう私たち。ともあれ目に見えないからおそろしい、という感情はそれなりに理解できるお話ではあります。私たち人間はその暗闇と未知を本能的に恐れを抱くものだとの説明は、確かに一定の説明たりうる。


こうした考察において個人的にもっとも納得できるのが、『地政学を英国で学ぶ』様の記事にあります。

そこで少し考えてみたんですが、どうやらわれわれが感じるこの「原発」と「車」という二つのテクノロジーについての「危険度の感覚の違い」には、われわれ個人がコントロールできる範囲というものがひとつの要素として絡んでくるのでは、ということ。
これを単純に言えば、人間には以下のような二つの原則が成り立つのではないか、ということです。つまり、

●自分がある程度コントロールできている(と感じる)場合→危険だと感じない。
●自分のコントロールが効かない(と感じる)場合→危険だと感じる。

ということです。

原発事故とコントロール(の感覚)の問題 : 地政学を英国で学んだ

結局の所、そういうお話なのかなぁと思います。つまるところ、それは『強さの心理と弱さの心理』であると。
私たちが真に「恐れるに足る」との判断を下す際に勘案するのは、別にその被害や数字の大きさとか、あるいは目に見えているとか見えていないからとか、そういう点で決まるわけではないんですよね。もちろん「人間として」というわけでも絶対にない。つまり重要なのは敵の攻撃力ではなくて、自分の防御力なんだと思うんです。自分たちが弱いと思わされるものにこそ、恐れてしまう。
自分自身の安全を考えた場合に、どれ位「その敵から無力感を抱かされるか」という点。
実際確かにその脅威度で言えば、刃物や鈍器や銃、自動車事故や喫煙や生活習慣病のほうがよっぽど人を殺している。でも重要なのはその対象の攻撃力の高さが問題なのではないんですよね。もちろんそれは幻想に過ぎない場合も多々あるんだけど、しかし私たちはそうした危険から身を守る事ができると、なんとなく確信している。それまでに幾らでも自分の注意・努力で避けられると思っている。


翻って、原発とその万が一の放射線健康被害って確かにそういうレベルではない。身を守るってレベルじゃねーぞ、の勢いで。
それはあの重装備な防護服を着ていても、少し離れた安全な家の中に居ても、もっと離れた海外に居たとしても*1、完全な安全を確保したと確信できない。挙句には食料や水まで汚染されてしまう。私たちの悲しいまでの防衛策はやすやすと貫かれてしまう(と、信じている)。いつまでたっても安心できない。
それよりもっと被害の大きいもの・危険なものは幾らでもあるんだけど、しかしそれでもやっぱり原発はおそろしい。何故なら私たち人間は、それに対してどうしようもなく無力だから。その嘆きは概ね正しいものであると僕も同意します。


原発の心理って究極的にそういう所にあるんだと思うんですよね。それはその危機の単純な脅威度ではなくて、私たちの抱く「無力さ」の加減こそが重要であると。私たちは「何もできない」ことにこそ絶望し、故に恐怖してしまうんじゃないのかと。

*1:何故か遠く離れたアメリカやヨーロッパでまで、今回の事故の影響が異様に恐れられているように。