支援と自立の境目

皆普段は大好きだけど、でも非常時は忘れる『バリアフリー*1についてのお話。しかし人権という概念は歴史的に見てもいつでもそうだったので、特別に現代日本人がひどいわけではないですよね。


震災で東京がバリアフル都市になった件(障害者当事者の視点から) - Togetter
へーという感じです。へー。

あんまりこれ言っちゃいけないのかもしれないけど、結局障害者福祉というものそれ自体がある種の社会全体の余裕、余剰リソースの供給という本質のもとで成り立っている、ということを浮き彫りにされてしまったように感じます。

http://twitter.com/TanTanKyuKyu/status/51550882122317824

実際ありそうなお話で、ある種の真理だと僕も思います。都市が節電モードに入ったら、それまで一般の健常者以上に依存していた一部障害者(や高齢者。以下省略)の人びとのほうが「より」困窮を招く事になってしまう、と。なんというか皮肉で、そしてありがちお話ではあります。*2
ここで重要なのは「ならば節電時だけじゃなく普段から『必要とする人のみ』がそうした支援を受けられるように低コストなシステムを作り出せばいい」という方法では、本質的な解決になっていない点にあるんですよね。普段から助け合いの精神を持てばいいとか、そう言うのは簡単だし、もちろんごく短期的にはそれは成立するんだけれども。


つまり、彼らが求めているのは普通の人びとと同じ(近い)暮らし、であるから。
階段の昇り降りや、バスの昇降、視覚や聴覚に障害を抱える人、を手助けをすることは勿論それはそれで美しい行為ではあるし、実際に役に立っているんだけれども、それをやれば全て万事解決かというとそうではない。彼らが本質的に求めているのは、助けてもらえる権利という「特別扱い」ではなくて、健常者と同じように暮らしていける社会、なんだから。*3
助けられたいのでも特別扱いされたいわけでもなくて、普通の人なら誰でもそうであるように当たり前に自立したいだけ。


バリアフリー』の根本の意味する所、物理的障壁を取り除くだけじゃなくて、精神的なそれを取り除く事でもある、ってそういうことなわけで。障害者の人びとが特別扱いされなくても生きていける社会。
で、今回の大震災と計画停電によって、それは見事に破綻したわけであります。
それは物理的な障壁が一層発生したという意味でもあるし、ならば彼らを救おうとまったくの善意から特別扱いするという応急処置の名の下に、やっぱりその本質的な『バリアフリー』という点においては後退した。彼らから自立の手段を奪ってしまった。


その意味でそれまであったバリアフリーが『節電』によって影響を受けたというのはやっぱり事実であるとしか言いようがない。私たちの社会はその有り余る電力というエネルギーによって、つまり障害者だけでなく一般の人びとにまで恩恵を「同時に」与えることによって、彼らを目立って特別扱いせずに(それなりに)スマートに解決させてきた。
人間の手を介するのではなく、よりコストが掛かるとしても敢えてその中立なエネルギーによって解決することで彼らの自立を支援してきた。しかしそのエネルギーは悲しいことに(そして日本人の美しい一体感によって皮肉にも)『節約』されてしまった、と。


まぁそれでも呑気に「彼らを私たちの手で助けてあげればそれでいいじゃないか」と言ってしまう人は居るわけです。それは支援という意味においては間違っているわけでは実際ないんだけれども、しかしそれが「自立支援」として正解かというとそれも違うんですよね。
まぁなんというか難しいお話です。

*1:バリアフリー - Wikipedia

*2:国際関係だと、食糧資源や燃料資源の市場高騰によって、最も大きく生活に影響が出るのが大抵より経済的弱者である貧困国であるように。

*3:実際それはまったく正当な要求ではあります。近代的人権思想とはそのような「機会と権利の平等」を目指してきたからこそ、私たち人類は今の場所に立っているのだから。だからそんな障害者の人びとの望みを不当なものであると私たちは切り捨てる事なんて当然できない。