議論において最強過ぎる禁じ手

イーガン大先生の仰る『大きなHワード*1』なお話。


http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1611945.html
とか、ついでに昨日のアレでも思ったんですけど、まぁ別に不謹慎だって騒いだり、反原発の主張すること自体は特にいいんです。というか議論すること自体はむしろ健全さの証明でもあります。某核兵器なんて議論しないことが健全さの証明とか言われてた時代もあったわけですけど。そう考えると今の状況は隔世の感がありますよね。ていうかこれまで日本全体の空気としてあんな馬鹿みたいに『核』について忌避してたせいでここまで原発の議論もなおざりにされてきたんじゃないかって思ったりします。


さて置き本題。
まぁ実際それを言ったらすべて終わりな訳であります。(人間として当然なされるべき)配慮が欠けている、不謹慎である、と。右や左など思想信条に関係なく「人間であるならば」当然同意するべきだ、と。
それを言ったらおしまいなんですよ。「人間として間違っている」なんて言ってしまったら。
それを言うことはつまり一方的な勝利宣言であり、議論の放棄でしかない。人間性という名の下に「みんな」という圧倒的多数が同意しているのだから*2、その論拠については自明であると宣言する事なんだから。数字や論理や感情を全て超越した先にあるもの。その基準に定まった一つはなく、故にそれは何にでも適用されてしまう。とにかく「人間として間違っている」と。それじゃ議論もクソもありませんよね、っていう。
で?っていう。

*1:「Humanity」グレッグ・イーガン『万物理論』のテーマの一つ。「『人間性』ってなに?」

*2:「みんな」と「世間」と「ひと」と「一般化された他者」と - maukitiの日記