共同体的効果の二面性について

ついでにもう一つ、別の視点から。

このように特定の町で憎悪が時を超えて継続する理由――15世紀以降ユダヤ人の多くがドイツから姿を消し、19世紀に戻ってきたばかりにも関わらず――に関し、著者たちは以下の3つの要因を挙げている。

1.ユダヤ人への憎悪は、余所者と仲間うちの区別が激しいことの一つの表れに過ぎないのかもしれない。
2.今回の研究で問題となった町は大体が小さな町であった。1920年代の人口は18,000人、中世の人口は数千人程度というのが中位値。人口の流出入は限られ、婚姻は概ね同じ町内で繰り返されてきた。
3.キリストへの裏切り者としてのユダヤ人という記憶。

600年の時を超えた憎悪 - himaginary’s diary

一般に私たちの持つ「連帯感」とは、同時に「排他機能」をも意味してもいるんですよね。
確かにそれは手っ取り早く共同体を維持・統一していく為に効果的な手段ではあったんだけれども、しかしまた手っ取り早く他者を排除してしまうのにも効果を発揮してしまっている。
それは一方が強力であればあるほどもう一方も強くなっていく。その前提となるキリスト教や近親者や身内という要素が、信頼・一体感のメルクマールとなると同時に、憎悪・不信感・排他性のメルクマールともなってしまう。
まぁこんなことはかつての全体主義を見れば一目瞭然ではありますけど。


逆説的に、本来見るべきだった個人の資質などではなくて、その中間的な属性(人種や民族や宗教など)によって判断してしまうことは、簡単に私たちが集団の一体感や連帯感を得るのに確かに効果的な手段ではあるんですよね。その意味で「社会の平穏を目指す」という点において『統一』は、そこまで的外れな手段ではないとも言えるわけで。
しかしそれはかつて無数の諸集団が夢見て、そしてどうしようもなく派手に失敗した方法であります。それこそもう二度とやろうとは思わない程度には。世界平和にそんな手っ取り早くて簡単な道はなかったと。
じゃあ一体どうしたらいいんでしょうね?