「忘れる」のではなく「改変して」生きている私たち

それは個人の誠実さとか不誠実さとかそういう問題ではなくて、人間の機能の一つのお話。


http://wiredvision.jp/news/201105/2011052722.html

この理論は、人間は記憶を呼び起こすたびに、その記憶を作り直し、ニューロンレベルで細部を微修正するという事実に基づくものだ。われわれは自分の記憶を、常に変わることのない「印象」ととらえ、それを思い出す「行為」とはまた別物として考えようとするが、実際はそうではない。
すなわち、記憶とは、常に変わらない情報が蓄積されているわけではなく、常に変化する「プロセス」であることが明らかになってきているのだ。いわば、思い出すたびに書き換えられるファイルのようなものだ。何かを思いだせば思い出すほど、記憶の正確さは失われて行く。

http://wiredvision.jp/news/201105/2011052722.html

へーという感じであります。へー。
私たちの記憶する過去とは常に改変されていくものであると。だからこそ、私たち人間にはそれぞれの人生と同じ数だけ、それぞれに物の見方が存在している。同じものを見て、しかし同じことを考えるなんて幻想でしかない。なんというかクオリアなお話っぽいですよね。
とある誠実な男の悲喜劇 - maukitiの日記
「正しい歴史認識」という幻想 - maukitiの日記
上記うちの日記でもそれに近いことを適当に書いたりしましたのでその辺は割愛。


「辛い経験も、いつか良い思い出となる」
なんて言葉がありますけど、プロセスとしては全くその通りなんですよね。私たちの記憶とは常に『現在』の視点の影響を受け続けている。
それは別に、意図的に都合が良いように改竄したとかそういう次元の話でさえなくて、ほとんど無意識的・自動的にその自らの視点が変化した故に、必然としてその記憶も変化していくと。
だからこそこうしてリンク先タイトルのような「ニセの記憶」というマーケティング戦略も成立する。私たちの現在の視点、例えば「瓶コーラには懐かしい青春の記憶がある」という風に、今現在持っている視点を変化させ刷り込ませることによって、その人の持つ過去の記憶まで操作する事が可能となる。結果として虚偽の「コークへの郷愁」が生まれる。
私たちの記憶とはつまり、いつだって現在の視点や価値観に支配されているのだから。


まぁぶっちゃけこんなことはアンリ・ベルクソン*1さんが100年位前に通り過ぎた場所ではありますよね。
つまり「記憶それ自体は反復された解釈という行為である」と。

*1:フランスの哲学者およびノーベル文学賞受賞者。アンリ・ベルクソン - Wikipedia