誠意は言葉ではなく金額

という身も蓋もないお話。


http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34373
まぁどう見てもユーロ危機に巻き込まれた世界経済の側がなし崩し的に参加を求められている、という構図ではありますよね。それはある意味でギリシャとユーロという構図との拡大バージョンでしかないとも言えてしまうわけで。ギリシャを救う為に否応なく巻き込まれつつあるユーロ圏と、そしてそんなユーロを支援するために否応なく巻き込まれつつあるIMF
ということでそんなIMFによるユーロ圏への援助について。
それはやっぱりこうして批判的な意見があったりするわけです。まぁそれもわからない話ではありませんよね。だってそもそも何でユーロ圏がIMFに支援を要請しているのかって、根本的には『ユーロ自身が金を出したくない』からなんだから。

 ユーロ圏が経済的に制約されておらず、世界で最も豊かな経済圏の1つであることを考慮すると、仮説に基づく将来の救済にIMFの関与を要請することは、道義的に非難に値する行為だ。

 ここで起きているのは何かと言えば、ユーロ圏の加盟国は救済に追加資金を出すことが難しいと感じており、各国議会を迂回する手段としてIMF経由で資金を回した方が政治的に都合がいいと思っている、ということだ。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34373

IMFの側としては、それでもそのショックの大きさを無視できない以上受け入れるしかない。そしてそんなユーロさんの自分勝手にも見える、自分たちの金は出したくない、という態度から透けて見えるのが「実はこいつらどっかの時点でユーロ圏の劣等生組を見捨てるんじゃないか」という危惧でもあるわけです。
結局のところ、外部である彼らが助ければ助けるほど、その不信感は高まっていくと。彼らは自分で自分を助けることができないから外からの援助を求めているのではないか、という疑念。いやぁどっかのギリシャさんをめぐる議論そのまんまです。


でもまぁそんな頑なな態度も理解できなくはないんです。特に強硬な反対派であるドイツとしては、1990年のあの東西ドイツ統一の苦しみを思い出してしまうから。
その(ユーロ問題の本質でもある)南北問題の解消には継続的で恒常的な財政援助が欠かせないわけです。あの時西ドイツが東ドイツへと莫大な援助をやってどうにかこうにか成果を出したものの、現代に至っても尚その傷は残ってもいる途方もない大事業の記憶。20年でおよそ200兆円という援助。しかしそれでも「同じドイツ国民」の為にそれだけの負担に耐えたのでした。そんな彼らが再び――しかも次は更に馴染みのないヨーロッパの仲間たちに、あの時と同様の援助をもう一度やれと言われても二の足を踏んでしまうのも理解できなくはないかなぁと。


故に彼らは頑なに自分たちのカネを使うことに一貫して反対するのです。その(自分達自身で出す)金額こそが彼らの覚悟の裏づけとなるものなのに。その金額こそが彼らの誠意の証明でもあるはずなのに。そしてそれを多分解った上で尚、払わない、という選択をしている。

 巧みにIMFを関与させる方法については、いくつかの提案が出ている。だが、どれも同じ問題にぶつかる。外部からの流動性支援はユーロ圏に、危機を悪化させている政策の推進を促してしまうのだ。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34373

つまりそういうこであると。同じ「ヨーロッパ市民(笑)」であるはずの仲間の為に金を出せない人たち。その躊躇こそが彼らに真の一体性などないことの証明ともなってしまっている構図。「誠意は言葉ではなく金額」だと言うのに。いやぁ悲しいお話であります。