『動物の権利運動』に賛同できないいくつかの理由

二兎を追いながらしかし実は一兎を得るつもりさえない人たち、のお話。


シーワールドのシャチは「奴隷」か、米連邦裁が近く初の司法判断 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
ということで以前の日記でも少しネタにしましたけど、シャチの件がいよいよ結果が出るそうです。
えーと、まぁ、(メキシコ等から不法移民してくる)人間の権利さえ守れていないのに動物の権利を守ろうとするなんておこがましいとか、あるいは観賞などの商用として用いられる動物より資源として搾取されて個体数を減らしている動物のほうが一般に考えてヤバイだろうとか、まぁ色々あるかとは思いますが、別にそういう点ではどうでもいいと言えばどうでもいいんですよね。それこそ個々人の価値観の相違、であるだろうから。
だから皮肉でもなんでもなく、貧困国で物乞いをさせられる為に手足を落とされる子供や、あるいはレイプされながら恥として私刑される女性たちよりも、本気でシャチの権利を守る方が重要だと考えているならばそれはそれでいいとは思うんです。うちの国でも少し前に「非実在青少年が云々」なんてやっていましたし。何が重要と考えるかは、それこそ各人の好きにしたらいいと思うんです。


で、ならば今回の『動物の倫理的扱いを求める人々の会』が、じゃあ真にシャチのことを考えてやっているのかというと、とてもそうとは言えないわけですよね。だって彼らはこれまで散々毛皮やら牛やらケンタッキーやら『たこ焼き』やらアザラシやら色々*1やってきているわけで。そんな彼らのこれまでのそうした運動で何か目に見えて達成した成果があるのかというと、全然そんなことありませんよね。毛皮の需要は新興国の台頭で増加しているといういつもの構図であるし、牛やら鳥やら豚やらの食肉需要だって全く衰えていない、等々結局それぞれを適当に『つまみ食い』しているようにしか見えないのでした。
「シャチを救うなら他の動物も救うべきだ」なんてことを言いたいわけでは勿論なくて、そもそも真に救おうとするならば、リソースを分散させている余裕なんてあるわけがないじゃないですか。
『動物の権利を守る』その一環として毛皮を無くしたいならそれに道筋をつけてから他の分野をやればいいし、食肉を否定しベジタリアンとして生きるべきだと思うなら、それを結果が出るまでやればいいんです。少なくともそれを達成することで初めて――その『動物の権利を守る』ことに、成功するわけだから。何も解決していないのにもかかわらず他のものに手をつけたところで、結果として変わっていなければ結局それは何もしていないのと同じなのです。その意味で、まず一つの成果を達成しようと注力する誠実な動物愛護・動物の権利運動の人たちもおそらくいらっしゃるのでしょうけど、しかし彼らがそうだとはとても言えませんよね?
故に、彼らのその無節操なやり方について「自己満足だ」という批判は、やはり正しいと同意するしかありません。その時々に最も耳目を集める動物という基準で選んでいるだけであり、つまりただ自分たちの行為の正当性を知らしめたいだけ。勿論そんな自己満足の行為が悪いとまでは言いませんけど、しかし結果としてそれは(当人の満足感以外)結局何一つ救ってはいませんよね、としか言いようがありません。


こうした構図について、この日記の元ネタとなった『ランズバーグ先生の型破りな知恵型破りな知恵』で先生は次のように纏めています。

「慈善家は寄付を分散させない。しかし実際はほとんどの人が寄付を分散させている。したがって、ほとんどの人の動機は慈善心以外のものである」*2

まぁそういうことであるんでしょうね。ただ自分の正義を広く知らしめることに夢中で、正義を実現しようとはしない人たち。それってそれぞれの文化や価値観やイデオロギーの衝突、という以前の話でしかないよなぁと。