命の値段はおいくら万円?

「一人の生命は地球よりも重い」とかそういうお話はさて置いといて。


【主張】悲惨な交通事故 厳罰の適用拡大で抑止を+(1/2ページ) - MSN産経ニュース
通学路全国調査:文科省が実施へ 相次ぐ交通事故受け、安全強化策を検討− 毎日jp(毎日新聞)
ということで最近何か祟ってるんじゃないかという位に頻発する重大交通事故のニュースであります。
まぁ我らが日本においても、一時に較べれば大分減少したとはいえ、やはり年間4800人超の人が交通事故で亡くなり――つまり2時間に1人のペースで不幸な誰かが自動車によって命を奪われ、その数倍以上の人たちが負傷し一生の後遺症を負ったりしているのでした。それを考えれば、今回の一連の事故もまぁ特別な出来事ではなく、ただ気が付いていないだけという『よくある悲劇』ではあるのでしょう。
ちなみに、少し前の日記でも触れましたけど、全世界における若者世代(15〜29歳)における最大の死亡原因は『自動車事故*1』という辺りなのも、やっぱりそれだけ自動車という存在の危険性をデータとして正しく示唆してもいますよね。


しかしだからといってそんな殺人機械について「自動車は危険だから人類の生活から排除すべきだ!」なんて本気で言う人は――揶揄の目的でする人を除けば――まぁほとんどいらっしゃらないわけです。むしろ大抵の場合そこでは、まさに今回のそれぞれの事件の後に語られているように、「適切な範囲で」とエクスキューズした上で「もっと安全対策をしよう!」と至極真っ当な意見が展開されることになるのでした。
つまりこうした議論の展開している時、私たちは――意識的か無意識かはともかくとして――『命の値段』を量っているのです*2
普段私たちは建前としてその命の重さを神聖視していながら、しかし厳然として、こうして命のリスクについてちゃっかり計算している。ここで重要なのは、その値段が幾らなのか、という点よりもむしろ私たちはやっぱりそれを経済的な基準に基づいて計算しているのであって、決してそれは無限大の価値を持つものではない、ということであります。
そんな現在進行形で、世界中の若者たちをもっとも多く殺している自動車についてさえも。




さて置き、自動車事故とその後に展開されるある種の冷静な議論について。こうしたお話を見ると、未だに色々騒がれている原発云々のアレな議論でも見習って欲しいなぁと思わずにはいられません。
別に「自動車を使うのを止められないんだから、原発も止めるべきではない!」なんていう乱暴なお話をしたいわけではなくて、むしろ真に問うべきなのはそんな『命の値段』についてなんじゃないのかなぁと。もし仮に人の命について無限大の価値を認めるならば、やっぱり原発以外の全てにおいてもそうすべきだと主張しなくてはならないわけで。まぁそれはそれで一つの意見だとは思いますけど、しかしそんなことを言い始めてしまったら今回の交通事故でのリスク計算のように、どう足掻いても現実に生きていくことなど不可能ですよね。
確かにそれは難しい議論なのは解りますけど、しかし少なくとも私たちは交通事故における『命の値段』についてそれなりに暗黙の了解の下にやっていっているわけで。だから決して手の届かない議論ではないとは思うんですよね。決して無限大ではない『命の値段』というスタートライン。何故か今はその前提が見事にすっとばされてしまっていますけど。
結局その辺りからきちんと再認識した上で始めない限り、その是非について、何処までいってもイデオロギーの争いにしかならないんじゃないのかなぁと。


ちなみにハーバードの法学教授であるキップ・ヴィスクージ先生はその『命の値段(単純な売買の為ではなく、私たちはその一人あたりのコスト増をどこまで容認するかという分岐点)』について経済学の視点から約660万ドルと見積もっているそうです*3
みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:一日辺り3500人ペース

*2:全国の信号機半減する? 財政難で進まぬ更新 撤去も検討+(1/2ページ) - MSN産経ニュースとか。

*3:『ランズバーグ先生の型破りな知恵』P225