虚構新聞「宇宙人がきたぞー!」

いやまぁ某ウソップの人でもいいんですけど、その笑いの手法は「個人として」どこまで許容されるんでしょうね?


橋下市長、市内の小中学生にツイッターを義務化
ということで何故かものすごく燃え上がってる虚構新聞さんでございます。みなさまおつかれさまです。
宇宙戦争 (ラジオ) - Wikipedia
まぁ個人的には、あの『宇宙戦争』の頃から何も成長していない俺たち……、という辺りでしょうか。かつて1938年にラジオというよく解らないメディアに踊らされた人たちと、こうしてまた2012年に新たに普及しつつある(twitter等による新たな形で)メディアについて踊らされてしまう人たち。こうして騒ぎになる理由も、そしてまた怒れる人びとが燃え上がってしまうのも、まぁわからなくはないお話ではありますよね。ついでにそのポジションの差によって怒りが増幅してしまう点も。


さて置き、ここで新しく問題になっているのは、ある種の公共物であるマスメディアなどがそれをやるのは論外としても、では個人の延長としてやる場合一体何処まで許容されるのか、というお話になるのかなぁと。そんな『嘘ニュース』という手法についての是非。

  • 制限された自由がある
    • 虚構新聞さんを筆頭にこうして莫大なアクセス数を稼ぐ個人たちは――ノブレス・オブリージュばりに――その地位(アクセス数)に見合った分だけ自重していかなければならないのか? 
  • 自由などない
    • アクセス数に関係なく個人であろうとそうした手法は否定されるべきなのか?
  • 自由はある
    • それとも個人的な活動であるとして、大多数の個人たちと同様にその自由は保護されるべきなのか?

この辺りから始めないと、虚構新聞さんの活動について「けしからん」と怒った所で大して意味はないのかなぁと思ったりします。その怒りと圧力で彼の行動を束縛したいと思っているなら、どうぞ勝手にやったらいいと思うんですけど。
そんなインターネットの公と私の境界線について。詳しい人是非おねがいします。


個人的にはまぁよく考えたら、こうしたギリギリの線を軽く踏み越えちゃってる様々なスポーツ新聞や週刊誌などが現実に存在し、それが批判を受けながらも脈々と存続している辺り、虚構新聞さんのそれをどれだけ詰ってもあんまり意味はないのかなぁと身も蓋もなく思ったりします。ていうか何でこんなに燃え上がっているのか未だによく解りません。
この件で怒っている人は、そうしたデマを平然と書いていながら(虚構新聞とは桁が違うレベルで)社会に流れている一部出版物や報道についてどう考えているのかなぁと。結果的に同じウソでも確信犯(誤用)でなければ許されるのか、なんて。
「スポーツ新聞を真に受ける方が〜」「週刊誌を真に受ける方が〜」「タブロイドを真に受ける方が〜」結構みんなふつうに言ってますよね?