「冤罪ヨクナイ!」の先にあるもの

大陸法とか英米法の歴史とかまで行くとぶっちゃけよく解らないので許してください。


同名で容姿酷似、死刑になった「間違われたカルロス」 米冤罪事件報告 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
陪審制たるいつものアメリカらしいお話ではありますよね。少し調べるだけでこうした冤罪のお話はわんさか出てくるわけで。ついでに冤罪だけでなく逆に明らかにやっていそうなのに無罪となった例とか。
今回の事件も、よく言及されているような死刑がどうこうというよりもむしろ、そうした『陪審制への批判』、というアメリカの司法制度そのものへのお話なのかなと。冤罪と死刑制度との関連はまぁその不可逆性という意味では解りやすいお話ではあるんですけど、個人的にはその両者を絡めて議論するのはあまり筋がよろしくないんじゃないかと思ったりします。冤罪は冤罪で議論すべきだし、死刑は死刑でその是非について、それぞれ個別に議論すべきなのかなぁと。どちらか一方でさえ難しい議論であるのに、両者を同時に考えるなんてとても無理です。
ということで以下、冤罪についての適当なお話。


まぁ勿論最初に書いたように、ぶっちゃけ(いつもの如く)陪審団がバカだったよね、というお話ではあるんです。名前が一緒で容姿が似ているからって犯人と間違えるなんてコメディかギャグじゃないのかと。フィクションでこんなオチがあったら大炎上じゃないでしょうか。いや、ミステリーとかでも双子トリックとかよく聞くので逆にアリなのかもしれません。まぁそれで死刑というまったく笑えないオチなんですけど。
しかしよく日本のネット上だけでなく世界中でも、アメリカの一般国民のバカさ加減をネタにしていますけど、そんな人たちが陪審を担っていたらそりゃこうなるのも当たり前ですよね。海外派兵などでよく報道されるようなアメリカ軍の(笑い話と紙一重の)失態とか、そんな国内裁判での陪審団のアレさ加減とどちらも似たようなものなので、結局そういう内でも外でも――差別とかそういう以前に――そもそも普遍的にそういう人たちなんだなぁと僕は理解しています。*1


結局のところ『冤罪』ってそういうお話なんですよね。
つまり、私たちは社会におけるある種暗黙のコモンセンスとして、その「有罪とみなす」確率について一体どこにそのラインを設定しているのか?
例えば50%の確率しかないのにも関わらず刑務所にぶち込んでいたらそれは確実にロクでもない社会だと言えます。ではそれが80%だったら? ――それも現代社会における基準では多分アウトでしょう。では90%、95%、99%だったら?
私たちは99.999999999%の確率で有罪であろう人物について、刑務所に入れるべきなのか?
もちろん純粋な理想論としては0.000000001%でも無罪の確率があるならば有罪にすべきではないのかもしれません。一部の人が主張するように――解ってるのか解ってないのかはともかく――もし完全に冤罪をゼロにしたいのならばそうすべきなのです。100%確実という結論以外は全員無罪放免にすべきだと。ただ、そんな社会に実際に暮らしたいのかと言うと、まぁ大多数の人は拒否するでしょう。だってそんな「完全無欠の100%でなければ誰も有罪にはしない」な理想論はつまるところ、身も蓋もなく「誰一人有罪にならない」という社会でしかないわけで。
だから冤罪がまったくない社会なんて、そもそも法治主義を諦めるか、それか人間をやめるしかないのです。どっかのクスリの標語みたいですよね。


かつて18世紀にウィリアム・ブラックストン*2さんというものすごく偉い法学者の方が仰った有名な言葉として次のようなものがあります。

1人の無実の者が罰せられるよりも、10人の罪人が逃げるほうがましである。

まぁ理想論としては理解できますけど、しかし現実にそれが受け入れられるかというと微妙なラインですよね。問題は、一人の無実(かもしれない)の者を諦める代わりに一体他に何人(判定の難しい犯罪者たち)を諦めなければいけないのか、という点であるのでしょう。
ランズバーグ先生なんかはその著書の中でこの問題について次のように纏めています*3

こんなことを言う人が居るかもしれない。「無実の人を刑務所送りにする可能性が少しでもある限り、私は絶対に納得しない」
それに対し私は、「それを言うなら、再び殺人を犯すかもしれない殺人者を釈放する可能性が少しでもある限り、私も絶対に納得しない」という答えを返すこともできる。

私たち人間が人間である以上冤罪をゼロにするなんてことは到底不可能であります。私たちはウソをつくし、感情に左右されるし、そしてそもそも能力に限界があるのだから。故に、私たちはどこかで妥協しなければならないのです。一体その有罪の判断を下すのに間違いをどこまで許容できるのか? 犯罪者を多く捕まえるために多少の冤罪はやむをえないとする人も、逆に冤罪を無くすために多少グレーな人たちは見逃すべきだ、というのもどちらも一つの意見ではあります。
「犯罪者を確実に罰しろ」と「冤罪を無くせ」は究極的にトレードオフなのです。どちらか一方を上げようとすれば、もう一方も必然的に上がってしまう。だって人間だもの。


ということで今回の件のように冤罪事件に怒る人はその辺りのことまで考えてくれると幸せになれるのではないでしょうか。なれないかもしれません。
間違った有罪判決と、間違った無罪判決の、その割合について。難しいお話ですよね。

*1:同時にまたこうして事後の研究がきちんと出る辺りさすがだとも思いますけど。

*2:イングランドの法学者。ウィリアム・ブラックストン - Wikipedia

*3:『ランズバーグ先生の型破りな知恵』P232