『NO MUSIC, NO LIFE.』の果てにあったもの

いつしかそれは「なくてはならないモノ」から「あって然るべきモノ」になってしまったのだと。


競争戦略論の枠組みを使うと音楽産業の変遷がわかるのでは? - 業界衰退の理由と競争要因の変化を分析してみた(大石哲之) - BLOGOS(ブロゴス)
音楽産業の衰退について。まぁ色々言われていますけど、この記事はかなり膝を打ち納得してしまうお話であります。ちなみに僕も10年以上ゲームかアニメ以外のを買った記憶がありません。

しかし、もはや大量消費の時代も終わったわけです。 似たような音楽や、似たようなドラマを大量消費する時代はおわった。まさにPOPの終焉。 もう、そういうのは、皆が欲しがる普及品段階を超えて、日用品になってしましました*1

コモデティです。

要するに、冷蔵庫とか、電子炊飯器みたいなものです。冷蔵庫とか炊飯器は、なくては困るけど、なにかあればいいわけです。 音楽も、冷蔵庫と一緒で、ないと寂しいですが、別になにか、適当に流れてその場でちょっと消費できれば十分なわけです。その音楽を一生聞き続けようとも思わない。

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なるほどなぁと。最早音楽は日用品であり、特別にありがたがるモノではなくなってしまったのだと。確かにその通りなのかもしれません。昔は特別で希少だったからこそ価値が存在した。音楽の起源ってやっぱりそういう所にあるわけで。生演奏からはじまり、レコード、ラジオ、テープ、CD、スマートメディアと進化していくうちに音楽は一般化していったと同時に――その良かれとやってきた努力とは裏腹に――無価値化もしていったのだと。
特に現代先進国に生きる私たちにとって、それはもう水や空気と同じレベルの存在感になってしまっていますよね。ごくありふれたものでしかない。もちろんそれは「もし急に不足したら」心底困るんだろうけども、しかしその苦しみはやっぱり危機に直面するまでは理解することなんてないのでしょう。私たち現代日本人が安価な水や安全の価値にあまり気付かないように。
だってそれは生まれた時からあって当然のものなんだから、わざわざそこにお金をかける必要がないじゃないか、なんて。


そのことを考えると、タワーレコードさんが見事に流行らせてみせた『NO MUSIC, NO LIFE.』は、今になってみるとまぁものすごく皮肉な結末を招いてしまったなぁと。でもその言葉の通りの世界が今の現状でもあるわけで。『NO LIFE』なんて普遍化し過ぎたら、いつしか特異点を越えてしまった。生活に寄り添いすぎてもう一般化してしまった。まるで熟年夫婦のようです。好きとか嫌いとかそういう問題じゃないんだ。
こうした構図を避けるために、例えば芸術や伝統芸能の一部などでは、わざと希少価値を高めるためにその公開を制限してもいるわけですよね。しかし音楽産業はそうはせずに、ひたすらメジャー化することを目指したのでした。
でも今になってそれを戦略的失敗というのも公平ではありませんよね。だって彼らのそれはむしろ成功しすぎた結果が今の現状ではあるんだから。人びとに音楽を売り込むのに成功しすぎてしまった。そう考えると、AKBやらジャニーズやらの『音楽以外』で勝負する人ばかりが残ってしまった現状は、まぁそりゃそうなるだろうなぁと思わずにはいられません。


結局その素晴らしいスローガンは実は自らの首を絞めていたというオチ。
その意味で、この素晴らしい言葉を生み出した人はこうして音楽が当たり前になった――故に価値を見出すのが難しくもなった――世界を見て、一体どう思っているのか気になる所ではあります。喜んでいいやら悲しんでいいやら。