無関心層を怒らせない程度の失言をする能力

バランスの取れた炎上手法の第一人者であり、日本における現代『民主主義』政治家の極北。




http://kousyou.cc/archives/6000
Kousyoublogさんちの面白いお話。あれほど失言まみれで、そして敵も多いと同時に根強い支持者も多い石原慎太郎という政治家が、しぶとく生き抜く姿についてのもやっとした感情。実際そんな彼が見せる奇怪な政治家像を見て、そういう気持ちを抱いてしまうのは理解できなくはないかなぁと。
以下そんな石原慎太郎さんのやり方に見る現代民主主義政治についての適当なお話。

一切考えなしにやっているのなら天才とまでは言わずとも傑物か、あるいは異常なまでの幸運の持ち主だと思うのだが、どこかで、そのような天賦だとか幸運だとかの要素だけで片付けたくない、そこになんらかの意図に基づく行動を見出したい自分がいて、葛藤がある。「愚かさ」として映る何かを安易に批判して終わりにするのではなく、その「愚か」と自身も含めて多くの人々が感じさせられている何かを生み出している要因やプロセスへの興味の方がどうにも強くて、石原慎太郎が何か発言したときに湧き上がる批判の波からもついつい距離を置いてしまいがちだ。

http://kousyou.cc/archives/6000

ただまぁそれでも敢えて解答を出そうとするならば、やっぱり彼は現代民主主義政治の選挙におけるある種の申し子でもあると思うんですよね。炎上手法と言っては身も蓋もありませんけど。
つまり、政治家としての能力ではなく自身(や家族)を芸能人化することでマスコミを巻き込む形で大衆の注目を集め存在=自身を「どういう人間か」知ってもらうことこそが、現代の政治家にとっての重要な生存戦略であるわけです。
それは是非の問題ですらなく、現代民主主義政治における根本的な摂理とさえ言っていい。




なぜ現代の民主主義政治では、少なくない政治家たちがピポリザシオン=芸能人化していくのか。
セイジッテムズカシイヨネ - maukitiの日記
以前の日記でも少し書いたお話ではありますが、現代の政治が担うお仕事というのはそれはもう複雑化と専門化の極致にあるわけですよね。実際に動くのは官僚を頂点とする公務員たちではあるものの、それを監督するのはやっぱり政治家たちでもある。もちろん高等教育の普及によって『有権者』たる私たちの持つ平均的な知識だってかつての時代のと比べればずっと増えたと言っていい。ただ、それと同じかあるいはそれ以上に、経済や行政や社会保障や外交や社会的問題などは複雑化する一方で、更にはそれを維持するだけでなく「改革」する為の前提となる専門知識や技術的知識も増大する一方であります。
昨今の選挙風景などでも『マニフェスト』というのが叫ばれるようになってきましたけどもまぁ建前としてはわかります。「政策で政治家を決めよう!」と。ただ同時にそれってしばしば中身がないとも批判されていて、実際その批判はその通りでしょう。マニフェストといっても大抵が「○○をやります!」と書いてあるだけで、その行程表や実現性について具体的な何か書いてあるわけでもない。
でもそれも当然の帰結でもあるんですよ。
――だって「具体的に」詳細を述べられても、それは必ずまったく聞く気が起きないほどに長文になるし、もっと言えば上記でも書いたようにそもそも具体案を聞いても僕も含めておそらく大多数の有権者には理解できない。某掲示板でも古くからあるジャーゴンでもある「三行で頼む」というのは選挙でもやっぱり真理であるのです。有権者は分かりやすいフレーズでなければ、記憶にさえ残してくれない。
そうして生まれる「有権者は政策なんかより、その政治家の人柄や雰囲気や知名度で投票する」という構図。
しばしば『有権者の愚行』として語られるこうした投票行動は、実はひたすら複雑化していく政治がどんどん市民の手から乖離していく状況の下で、しかし有権者たちはそれでも少しでも「自らの手」で政治を決めようとする悲愴な戦いの帰結でもあるのです。だってそうでもしなければ、自分の手で頭で、自らの意志で、民主的にそれを選んだなんてとても言えないから。
能力というだけでなく時間的なリソースという意味でも、大多数の市民にとって『政策』の是非や詳細を長々と議論できない以上、そうするしかないないんですよ。それが嫌なら投票自体を棄権し、それこそ政治が自らの手元から離れていくのを黙って見ているしかない。
民主主義か、それともピポリザシオンかの究極の二択。




翻ってこうした前提がある状況下では、政治家たちが目指すのは「素晴らしい政策」云々というよりも「自分がどういう人間か」ということを解ってもらうことこそが決定的に重要な生存戦略となるのは理解できますよね。とにもかくにも自身の存在を知ってもらわなければ問題外である。だからこそ「政策で決めよう!」なんてキレイ事が叫ばれる一方で、現代の政治家たちは地元でどぶ板選挙をするのをやめない。そこで彼らが地道に地元でやっているのは根本的には「顔を売る」ということであるわけで。やっぱりそこで勝負を決めるのは、政治家が「何を考えているか」ではなくて、政治家が「どういう人間であるか」という点なのです。
こうした顔売りは何も政治家自身だけではなく、その配偶者をはじめとする家族や関係者にも及ぶ。その意味で石原裕次郎という存在が身近にあった石原慎太郎さんというのは、元々有利なポジションにあったというのは事実でしょう。しばしば芸能報道がそうであるようにあるスターを知るということはその親類や関係者の人間までも知るということでもあり、逆もまた言えるのだから。
ここで重要なのは顔を出し続けることの継続性であります。つまり、一度顔を売ったら終わりではなく、常に忘れ去られないように存在を意識させ続けなければならない。所謂『タレント候補』な人たちが最初こそ勝者となるものの、実際に政治家になってからは多くがパッとしなくなっていくのは、単純に無能だとかそういう問題ですらなくて、ただただ現役時代にあった存在感を発揮する手段が消えていくから、というお話でしかない。
つまり、地道にどぶ板を続けるか、あるいはメディア等を上手く利用することで恒常的に顔を出し続けることこそが重要であって、実際のところ、その個人が何を言ったのか、というのは悲しいことにそれほど重要なことではないのです。
まぁ正しい間接投票の姿であるとは言うこともできるんですけど。


もちろん失言によって敵を増やしているのは事実であるでしょう。ただまぁ幸か不幸か現代日本の民主主義政治というのは『陶片追放』という制度は存在しない。故に決定的な敵が幾ら増えたところで、それと同じくらい支持者を増やせば――ひいてはその発言を「相対的に」問題視しない中立層に顔を売ることさえできれば、上記で述べたようにむしろリターンは大きいのです。

彼ほど多くの人が憎み、罵倒している政治家というのもなかなかいないが、その一方で彼ほど強力に政界を生き抜いている政治家というのも稀有だ。なんだかんだで中央政界では大臣までやり総裁選を争い、都知事四期目途中まで務め、今また中央に復帰して政党の代表に収まっている。差別的で偏見に満ちている発言を繰り返す一方で、決して自身の地位を失うほどの振る舞いはせず、致命的な失敗をしない。強い組織力と地盤を持っているというのはあるだろうが、天性のものか、意図的なものか、ギリギリのところを、時に一歩も二歩も踏み越えているように見えて、その実上手く渡っていく。

http://kousyou.cc/archives/6000

個人的に石原さんが上手いのはこうした点ではないかとおもうんですよね。その根強い憎悪を抱くような決定的な敵を増やしつつも、しかしトータルとして自身の名前を支持層及び(そこまで問題視しない)中立層に売れればいい、という冷酷な計算とバランス感覚こそが。
ありきたりなことを言っても誰も注目しない。犬が人を噛むのではなく、人が犬を噛むからこそニュースになる。失言を支持する人を増やすのではなく、敢えて問題視しない=興味がない人を狙って強い印象を与えることで、自身の存在を植え付ける。
当然そんな彼の人権意識のアレ具合を批判することは正しいでしょう。ただ私たちが抱く怒りには、やっぱり優先順位があるわけで。蛇蝎の如くそれを憎む人がいる一方で、多少問題だとは思いつつもそこまでの怒りを抱かない人たちだっている。そうした中立的な立場にある人たちこそが、ああした「失言騒動」の真のターゲットであるのです。そんな人たちこそがいつか選挙の時、まったく『人柄』を知らない何を考えているか解らない候補者よりも多少は知っている候補者の方がマシだろうと、消去法的に選択してくれる。


こうした手法は、彼のような人間のよく言っても過激な悪く言えば暴言な発言をいちいちメディアが取り上げなければ機能しない構造ではあります。ただ、しばしば怒りに震える人たちが同時にまたその失言をより大きな問題として取り扱うことをも望んでいるわけで。そうした大きな話題になればなるほど、母数として敵が増えると同時に、(潜在的な味方でもある)中立派を増やすことになるのがこの構造が上手くできている点でもあるわけで。結局批判者の声の大きさもまた利用されているんですよね。
無関心層を怒らせない程度の失言をする能力。そのバランス感覚はさすがだなぁとやっぱり思ってしまいます。



石原慎太郎さんの政治家として強さについて。複雑化する現代民主主義政治におけるタレント政治家の極北。
みなさんはいかがお考えでしょうか?