「ノロマなカメの努力」と「素早いウサギの努力」の自明の結果

技術進歩と努力が報われる社会が合体した果てにある格差社会



有閑階級は衰退しました - maukitiの日記
昨日書いたネタに関連して。技術進化の果てにある社会像について。
上記日記の中でも少し触れたんですが、まぁやっぱりエリートたちほどよく働くようになったのは、先進国を中心に全世界的な傾向であるわけですよ。かつてあった貴族階級なんかとはまったく逆で、現代では富裕層たる超エリートたちほど、よく、必死に、全身全霊で、人生そのものを掛けて、懸命に働く。だからこそ現代の格差問題ってタチが悪いわけで。
もちろん高等教育を受けるだけの資産がある、という意味では親世代の資産は重要ではあるものの、しかし本人の学習能力が必要ないかというとやっぱりそんなことはまったくない。


でもまぁこれってある種必然の帰結ではあるんですよね。私たちは善意から「個人の努力が報われる」平等な社会を目指してきた。より「努力すれば報われる」社会は、現代においてそこそこ実現していると言っていい。むしろ行き過ぎるほどに。

 経済学者のマーク・アギアール氏とエリック・ハースト氏は数年前、1965年から2005年にかけて米国の仕事と余暇がどのように進化してきたかに関する調査を公表した。男女とも余暇時間が増えていた――もっともケインズが予想したような多さにはほど遠かったが。

 しかし、この傾向に逆行する人もいた。最高の教育を受けた最も所得の多い人たちは、男女ともに、かつてないほど自由時間が少なかった。1980年代半ばから、こうしたエリートたちは、すべてをなげうって猛烈に働き始めたのだ。

 とすると、我々は世間一般ではなく、職場の同僚に後れを取らないようにしているというのが本当のところなのかもしれない。

 誰よりも長く働き、誰よりも休みを少なくすることで、我々は出世の階段を上る。余暇時間の急激な減少が、この階段の頂点における格差が急拡大した1980年代に始まったのは、偶然ではないかもしれない。最も懸命に働くことに対する見返りは大きいのだ。

ケインズが描いた週15時間労働の世界はいずこ 確かに世界は経済的に豊かになったが・・・ | JBpress(日本ビジネスプレス)

まさに現代のエリートたちはそうした理由から働きまくっているわけだから。(もちろん競争に勝つという前提で)彼らの努力の対価は天井知らずに高騰し続けている。




ちなみにこの状況を決定的に先鋭化させている背景にあるのが『技術革新』だったりするんですよね。
技術進歩がもたらすのは、消費者としての私たちにとって「便利な生活」というだけでなく、労働者としての「価値格差拡大」でもあったわけですよ。高等知識や技術を獲得する為の能力の差は、労働市場におけるその人の価値を決定的に左右するようになっている。つまり、誰もが農民だった時代より、ずっと稼ぐ人と稼げない人の格差は大きくなっている。あの時だって要領がよく、真面目に働く人がより多くの出来高を実現し、そうでない人との格差はあったでしょう。
しかし現代社会ではそれどころじゃない格差がある。一貫してエリート教育を受け専門知識――それこそ金融工学や法学なんかを収める人と、せいぜい評判の悪い学校しか出れないまま工員になれない人とでは、当たり前のことながら生涯賃金に決定的な差がある。この学習能力の差は、当然昔から存在していて、その割合だってほとんど変わっていないはずです。
ところが技術進歩や社会の複雑化は、その学習能力の差によって賃金に決定的な差をもたらすようになっている。当たり前の話ではありますが、頭の良い人は上に行けば行くほど希少になるし、そうではない単純労働はロボット化等でどんどん非希少化が進む。
――致命的に乖離していく労働者としての価値。
上記リンク先で書かれているケインズさんの誤算って、この技術進歩がもたらす労働需給の乖離=賃金格差の劇的な乖離が大きいんじゃないかと個人的には思っています。
更なる高度な技術や知識の進歩は、それを持つ人材を求める需要を更に増大させる。そりゃ給料が高騰しないはずないですよね。まさに現代は、一握りのエリートたちの努力が報われる社会であるんですよ。しかしそれとは反対側では、全く逆の流れが起きている。


ノロマなカメの努力と、素早いウサギの努力との、自明の結果。現実はお伽噺のようにはならなかった。


ただ、社会正義を愛する大多数の私たちが覚えておかなければいけないのは、こうした経済的側面があるからといって必ずしも全ての面で「人間として」格差が拡大したわけではない、という点にあります。21世紀の今の時代は、人類史上において「市民としての権利」「個人としての尊厳」など最もよく守られている時代だということは間違いない。現代日本を筆頭に他の先進国でさえ尚課題はあり、完ぺきではないのは言うまでもない。だからといって総体としては昔よりも進歩し平等に近づいていることは否定できないでしょう。
――しかし、その一方で、技術進歩が続く私たちには『稼ぐ能力』による経済的格差はかつてないほど、おそらく人類史上最も大きく開くことになった。
この政経のギャップがもたらすジレンマって、ものすごい閉塞感と感情的反発を生むよねぇと。
いっそ市民的権利なんかにも格差があれば話は簡単だったんですよ。革命でも何でも起こせばいいんだから。しかしそうではない。表向き個人としてそれなりに平等に扱われていながら、しかし稼ぐ能力の差という意味では――まさに私たち自身が愛した「努力が報われる社会」と「止まらぬ技術進歩」によって――決定的に格差が拡大している。
より良き社会を望むのであれば、この両者のギャップはきちんと認識しておくべきだよなぁと思います。前者の政治的平等のそれなりの実現を否定するのも、後者の埋めようのないギャップを否定するのも、やっぱり現代社会について盲目でしかない。


極論を言えば、この格差を縮める為には、最終的にはそうした稼ぐ人たちの成果を制限するしかないでしょう。より稼ぐ人から稼げない人へと再分配するしかない。
でもそれってつまり、どう言い繕おうが「個人の努力が(あまり)報われない社会」というのを意味するわけで。いつか見た社会主義への道、というのはその通りかもしれません。現実的にはそうした再分配を致命的に反発(当然彼らは努力の正当な対価を求めるでしょう)されない程度にマイルドに妥協させる、という辺りに落ち着くんでしょうけど。


自由か平等か。まぁ古典的テーマではありますよね。
みなさんはいかがお考えでしょうか?