スポーツへの愛・おぼえていますか?

「誠意とは金額」ならぬ「スポーツへの誠意とはワクチン優先度」である。



IOC 五輪選手などへのワクチン ファイザーなどから提供で覚書 | 新型コロナ ワクチン(世界) | NHKニュース
選手団のみの優先接種、ボランティアは? 関係者からも疑問の声 | 毎日新聞
ということで我らが愛するスポーツの祭典であるオリンピックにまた動きがあったそうで。

 国際オリンピック委員会IOC)は、東京オリンピックパラリンピックに参加する各国・地域の選手団へ米製薬大手ファイザー社製の新型コロナウイルスのワクチンを提供すると6日に発表したが、政府によると、接種対象は選手や指導者らを想定している。大会を支えるボランティアらにもワクチンが行き渡るかは不明だ。唐突にIOCが示した新たな「カード」に、大会関係者や学識者からは疑問の声が上がる。

IOC 五輪選手などへのワクチン ファイザーなどから提供で覚書 | 新型コロナ ワクチン(世界) | NHKニュース

うーん、まぁ、そうねえ。
本気でオリンピックをやるつもりならば、コレくらいやっても不思議じゃないよね。
個人的には大坂なおみトレンドでオリンピックでも政治発言が生まれる可能性があり期待しているので開催支持派ではありますけども、一方で既にここまでのgdgd政治ショーで十分に楽しんでいるのでもう元は取れてる感あります。


しかし、開催の為にここまであからさまに「選手へのワクチン優先接種」という構図を見せられると、色々と考えさせられるお話だよなあとは思うんですよね。
つまり、我々がスポーツを一体どれだけ大事に思っているか、についての身も蓋もない不都合な真実が暴露されているようでクッソ愉快だよなあと。
「誠意とは金額」ならぬ「スポーツへの誠意とはワクチン優先度」である、なんて。


その意味でいうと、このオリンピック開催の是非を単純に「コロナ危機への対応」という文脈で議論するのってあんまり適切ではないというか、価値中立を装っているようでちょっとズルいと個人的には思っているんですよね。
――コロナを抑えるためにオリンピックは中止にするべきである。
そんなの科学的問題・公衆衛生という観点から見れば当たり前なんですよ。
それこそコロナを収束させるために、徹底的に人流を抑制し経済活動をほぼゼロにするのが一番かんたんだって、私たちのほとんどが理解しているように。
でもそんなの机上の空論でしょう。
黒か白かのような二元的な方法では、仕事や学業などなど、ミクロな私たちの多くが生活していけないのだって同じくらいわかってる。
だからこそ、その曖昧なグレーゾーンを右往左往しながらその戒厳令や自粛度合いについて、各国それぞれの政治的判断(ここ重要)が必要になっているわけで。

オリンピックは4年に一度開催される世界的なスポーツの祭典です。スポーツを通した人間育成と世界平和を究極の目的とし、夏季大会と冬季大会を行っています。
2012年にはロンドンで記念すべき第30回オリンピック競技大会が開催され、世界204の国・地域から選手が参加し26競技302種目が実施されました。

オリンピックとは|オリンピック情報|東京2020大会開催準備|東京都オリンピック・パラリンピック準備局

私たち市民社会にとって(アマチュア)スポーツとは何か、そしてその精神の最高峰でもあるオリンピックとは一体どれほどの価値を持つモノなのだろうか、という私たちの社会が決めるべき『正義』や『正しさ』の価値判断の問題じゃないのかと。
オリンピック招致でも金銭的な意味で問われていたその問題が、コロナによってよりあからさまにその「社会における価値・重要度」について問われるようになってしまった。
スポーツの価値についての、身も蓋もない判決について。
コロナ禍でもやるだけの価値がスポーツにはあるだろうか?


もちろん普段からプロではないスポーツの活動やオリンピックについて、批判的なポジションからそれに反対するのはまったく一貫性があってそれはそれでいいと思うんですよ。割といっぱいいますよね。オリンピックは金のムダ、あるいは企業に所属しながら自分の好きなことをやっているなんて良いご身分よね~などと皮肉を言う人たちとか。
しかし少なくない私たちはそうしたスポーツやオリンピックを目指す人たちを応援し、そのプロではないアマチュアな活動に魅せられ応援してきたわけでしょう。
「アスリートファーストだ!」
「感動をありがとう!」
そこにあるスポーツとその精神の尊重を、市民社会に内包し支えることを正しいとする態度でもあった。
まぁ概ね僕もそういう意見には同意します。


しかし、こうしていざコロナによって社会が大きく揺さぶられたとき、そのスポーツの重要性はまぁあっさり「切り捨てよ!」という声が多数派になりつつある。
つまり、普段の言動とは裏腹に、スポーツの精神なんてものは国家の緊急事態の際にはあっさり捨て去ってもいいような存在だったの???
しかたないよね。私たちの社会のためにお前の夢はぎせいになってくれ。
昔の国家主義者みたいでちょっと面白いよね。お国の為に死んでくれ。
あの時と一緒で今も昔も人間は変わらないんだなあってほっこりします。


東京五輪報道に見えた真の「アスリートファースト」──開幕の半年前に起きた変化が意味するもの(森田浩之) - 個人 - Yahoo!ニュース
だから実際のオリンピックの代表選手たちがものすごい微妙で言葉を濁した態度――敢えて言うなら関係各所に配慮しへりくだった様な言葉になってしまう構図って、ものすごく理解できるんですよね。

新谷は昨年12月25日に練習を公開した際、すでに東京五輪の開催について「みんな一緒の気持ちになって開催してほしい。アスリートだけがやりたいというのは、私の中で違うと思う。国民のみなさんがやりたくないと言っていたら、開催する意味がなくなってしまう」と語っていた。

開幕まで半年となった日に新谷はNHKのインタビューに応じ、「アスリートとしてはやりたい。(でも)人としてはやりたくないです。アスリートとしては賛成だけど、一国民としては反対という気持ちです」と率直に話した。さらに「命というものは正直、オリンピックよりも大事なものだと思う」ともつけ加えている。

東京五輪報道に見えた真の「アスリートファースト」──開幕の半年前に起きた変化が意味するもの(森田浩之) - 個人 - Yahoo!ニュース

「命よりも大事」そんなの当たり前なんですよ。議論の余地はない。


問題なのは、じゃあスポーツとオリンピックってそもそも私たちの社会にとって一体どれくらい重要なものなのか、という点でしょう。
その身も蓋もない「正しさ」「重要性」についての評価こそを、私たちは議論すべきであるし、下さねばならない。
人間社会のどこにでもある「お前の態度が気に入らない」という無敵の論理の極北にあるもの - maukitiの日記
いやまぁ先日の日記ネタにもしたように、いつものようなヒトラーアベ……はもう居なかった菅政権やIOCが信用ならないので彼らの下で行うオリンピックは反対である、という「お前の態度が気に入らない」という無敵すぎる論理を持ち出してみて狡猾に議論回避してみてもいいですけど。
そういう風に正義や正しさについての重要な議論をうまく回避して問題を先送りするのって、多文化主義を信奉する私たち得意だもんね。


……ということでその意味ではコロナ禍というのは、怪我の功名というか良い機会だと評価することはできるんですよね。
スポーツ振興への反対や、あるいはオリンピック反対派が散々言ってきたように、我々の社会でわざわざ支えるべきではない・コストに見合わないモノだろうという意見には一理あるだろうし。
一方でスポーツという文化を社会全体で支えるという意見にもやっぱり一理ある。
別にどちらが良いとか悪いとか主張したいのではなくて、それってやっぱり私たち自身で議論して決めるべきじゃないかと。
その上でオリンピックの開催か中止かを決めるのならば、全く反対できない。
もしコロナの感染抑制だけを焦点に決めるなら、それはズルいとやっぱり思いますけど。


スポーツの祭典とは我々の市民社会にとって、一体どれくらい重要なものなのだろうか?
ワクチンの優先接種を許すくらい?
あるいはスポーツに夢や人生を掛けようとしている人たちなんて、あっさり切り捨ててもいいくらい?
コロナという文字通り緊急事態によって、私たちはその真の価値が問われようとしている。


スポーツの祭典であるオリンピックは、私たちの社会にとって一体どれほど価値があるものなのだろうか?
――この重要すぎる問題が内包されていることを考えると、当事者であるIOCがまったく後ろに引こうとしない態度なのも理解できてしまうよね。
それを一度認めてしまってはもうオリンピックなんて……。


みなさんはいかがお考えでしょうか?