固定観念の壁は撃ち抜けない

正しい理論があるにもかかわらず、しかしそれをやめることができない私たち。あるいは、民主主義政治の限界のひとつ、について。


http://econdays.net/?p=5590
えーとまぁ、日本でも同様に仰る方は多いですよね。
さて置き、では何故、経済理論的に正しいはずのものが、ほとんど何処の国でも失敗し続けているんでしょうね?

「財政緊縮にふさわしい時期は,好況期であって,不況期ではない」――そう語ったのは,1937年のジョン・メイナード・ケインズだ.当時,ルーズベルトですら,このケインズの正しさを証明しようとしていた.ルーズベルトは,安定した景気回復をつづけていたところで時期尚早に財政を均衡させようと急いで,アメリカ経済を深刻な景気後退にたたきこんだ.不況のさなかに政府支出を削減すると,いっそう景気低迷を深めてしまう.緊縮は力強い景気回復が軌道に乗ってからやらなきゃだめなんだ.

ざんねんながら,2010年後半から2011年前半にかけて,西洋世界の多くの地域で,政治家と政策担当者たちは「じぶんはモノがわかってる」と思い込んで,財政赤字に注意を絞り込んだ.ぼくらの経済は金融危機からはじまった不況からどうにか回復をはじめたかどうかってタイミングだったってのに.そうやって反ケインズ的な信念にそって行動したことで,彼らはまたしてもケインズの正しさを証明する結果に終わった.

http://econdays.net/?p=5590

更に言えば、不況時にはそれこそ財政赤字を抱えてでも政府支出を増大させて民間の穴埋めをすべきである。まぁ僕のようなせいぜい学部生レベルの知識から見ても、おそらくそれは真理ではあるのでしょう。ケインズさんがその『一般理論』の時代からずっと指摘し続けているのにも関わらず、しかしその通りに振る舞えない私たち。
そしてそれを自称や他称の『賢き人びと』がそれを嘆くわけです。一体なんでお前らはそんなバカなことをやっているのか? と。
そう言いたくなる気持ちは解らなくはありませんけど、しかし個人的にはそんな『反ケインズ』的な逆の立場の意見も十分理解できるものだとも思うんですよね。つまり、何で私たちはこうも見事に毎回毎回緊縮に走ってしまうのかって、そりゃ現実に必要な時に緊縮政策をきちんと実行することができてもいなかったわけだから。その回復期に本来やるべき緊縮策もまた、やっぱり多くの場合で、後になっての削減に失敗してきたのです。大きな政府の肥大化を止められない。
でもそんなの当たり前ですよね、一度確立してしまった既得権益を易々と手放す人なんて居るわけがない。そこで生きている人にとっては、それこそ自分の人生を掛けてまで戦う価値があるものなのです。そして本来一時しのぎであったはずの政府支出は恒常化していく。


こうした経緯を腐るほど見てきた私たちにとって、いざ不況で財政状況がヤバい、という状況に直面した時にほとんど条件反射で「ムダを減らせ!」と叫んでしまうのも無理はない話なのかなぁと。私たちにはケインズ先生のそんな『正しきお言葉』を素直に受け取るには失敗の記憶が多すぎるのです。
その意味で、賢き人びとが「バカなこと」と切り捨てている、緊縮を訴える人たちの怒り・不安・嫉妬もまるっきり理解できない話ではないと思うんです。「どうせまたムダ使いするんだろう?」と。確かにそのようなことが――混合経済が世界を席巻しそして衰退していった20世紀の後半の間に――ほとんど何処の国でもあったのです。
過去の失敗の記憶によって、正しい行動が取れなくなっている私たち。結局、構図的には、不況時に緊縮に走ろうとすることをバカだと批判する一方と、過去の失敗から学ばずにまた同じ失敗を繰り返そうとしている(ように見える)ことをバカだと批判するもう一方、という両者がお互いに相手をバカだと思っているというとても愉快なことになっているのではないでしょうか。

近代以降にあった時代の流れ、市場の時代→政府の時代→市場の時代→、というサイクルでいくならば次は再び政府の役割が増大すると言えるのでしょう。しかし今更政府の役割を大きくするには、未だその不信感は強すぎてどうにもならないのです。もっと時間が経過して、あと数十年経った後ならばできるかもしれないことが、今の私たちには記憶があり過ぎて不可能なのです。

管制高地はどこへ消えた? - maukitiの日記

以前の日記でも書きましたけど、やっぱりそういうことなのかなぁと。
短期のリスクと長期のリスクについて。まぁもしそんなものを「きちんと判断」することを全ての人間ができるのであれば、人間の悪行なんてほとんど全て世界から消えているはずですよね。除夜の鐘を108回も打っている時点で私たちには到底無理そうです。


そんなこんなで『失敗した過去の記憶』で動けなくなっている私たち。でもやっぱりそんなの人間ならばごく当たり前の反応ではあります。個人の嗜好のようなミクロのレベルから、国家戦略のようなマクロのレベルまで変わることはない。故にそれは容易に多数派・主流派の位置を占めることになるし、そして私たちの愛する民主主義社会ではそれが『民意』という最終決定となる。原発や軍隊や政府の力そのものについて、一度失った信頼は簡単に取り戻せはしないのです。少数の個人ならともかく、それは多くの私たちに失敗した記憶があるからこそ。
ロックスミスさんのように、「貴重なデータが取れましたので、つぎは失敗しません、ご期待ください」と言った所で石を投げられるだけなのです。
逆説的にそうして石を投げるシステムがあるからこそ過去の時代にはしばしばあったような戦争や搾取をやるには、民主主義政治はハードルが高い、というころでもあるのでしょう。そこにはメリットとデメリットが当然のように両立している。かくして「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」なんて言われるのです。


ということで、こうした身動き取れない状況において、すぐに思いつく解決策としては三つほど挙げられます。

  • 現状維持
    • それでもしかしたら幸運にも自然治癒するかもしれないし、危機が深刻化して否応なく動かざるを得なくなるまで問題を放置する。あるいは皆が文字通り『忘れる』まで問題を棚上げする。
  • 有権者すべてに叡智を授ける
    • 昔某赤い人がそんなこと仰っていましたよね。
  • 民主主義をやめる
    • そもそも論でいけば、そんなバカに決定権を与えるからこうしてデッドロックに陥るのであって、だったら初めから少数の『賢者』によって決めればいい。というのは確かにある種の正論ではあるのです。故に民主制は寡頭制へと回帰し、そしていつか寡頭制は独裁制へと回帰していく。単純に悪意というよりはむしろ、より『効率的な』決定を求めて。

まぁ下の二つがどう見ても現実的ではない以上、こうして私たちが現状維持を選んでしまうのも無理はないかなぁと。そしてクルーグマンさんのような、「賢き人」が怒り狂うと。
皆さんはいかがお考えでしょうか?