「合理的な人間」には理解できない感情

その両者の断絶。


http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/37043
ということでエリートな人たちの、エリートな人たちによる、エリートな人たちのための『ダボス会議』であります。

 先週開催されたダボス会議には、エジプトの代表としてヒシャム・カンディール首相が出席していた。米ノースカロライナ州立大学で工学博士号を取得しており、英語も流暢なカンディール氏は、ダボス会議にはまさにうってつけだ。
 教育とインフラ整備の計画について行ったプレゼンテーションも真摯かつ印象的だった。しかしその頃、当のエジプトでは暴動が発生し、非常事態宣言が出されようとしているところだった。
 このエジプトの状況は、ダボス会議にのしかかる大きな問題の縮図だった。会議で表明される合理的な人々の国際的な謀(はかりごと)は今後も影響力を維持できるのか、それともダボス会議では非合理的だと見なされている思想――ナショナリズム、反資本主義、宗教の原理主義――が勢力を伸ばしていくのか、という問題だ。

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ところがどっこい、そんな彼らの論理の「外」で生きている人たちが多数の現実世界ではその方程式は通用しないと。いやぁ何というか悲しいお話ではありますよね。
自由って、せつなくないですか? - maukitiの日記
まぁこの辺は以前書いたお話でもあるんです。つまるところ、「持つ人びと」には出来る生き方が、しかし「持たざる」人びとには出来ないから。かくしてそのエリートたちが描く理想社会は、まるでアキレスの亀のように、いつまで経ってもやってこない。もちろんそれは多分に身も蓋もなく金の問題であります。経済格差によって生まれる受けられる教育の差。
ナショナリズム、反資本主義、宗教の原理主義など、なぜ人はこうした所謂「内向き」な論理に走ってしまうのか?
――といえばその方が生きやすい(と考えている)人が現実に存在するから。自分たちの論理の中だけで生きていきたい、と望む人たち。確かにそれは彼ら自身にとってむしろ合理的な解でさえあるのでしょう。実際、グローバルな世界がやってこない方が都合が良いという人々は現実に存在していることを私たちは知っているわけで。


でも、この問題で真に救えないのはそれに留まらない点にあるんですよね。つまり究極的には「能力の差」という所に行き着いてしまうから。教育を受ければ誰もがその「グローバルな世界で活躍できる」だけの能力を獲得できるなんて幻想でしかない。
能力のある人たちが生きやすい社会と、それを持たない人たちにとって生きやすい社会というのは、まぁ悲しいことに、どこまでいっても完全には重なることはないのです。お互いに妥協できるならそれでもいいでしょう。では、妥協する気がなかったら一体どうすれば?

 ダボス会議の会場で判定を下すのは難しい。なぜなら、「非合理的な」人たちは大抵、ここに招待されないからだ。各国の政府が派遣してくるのは特に行儀の良い政治家であり、けんかっ早い政治家やポピュリストは国内に留め置かれている。

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まぁそれも一つの解答ではありますよね。『ダボス会議』に出るような人たちは、自らのそれを『普遍的価値』――一度経験すれば誰もがその素晴らしさに気付くに違いない、と確信しているから。故に議論の余地などないのだと。


小さな「個人の嗜好」の問題の積み重ねが最終的に行き着く、社会そのもののあり方、についての見解の差異。人間の政治なんてどこまでいってもそんなモノだと言ってしまってはそれまでではありますが。
いやぁにんげんってめんどくさいですよね。