ヘイトスピーチ云々というよりは、教育の失敗

排外主義を見つめる者は、排外主義に見つめられているのだ。


ヘイトスピーチ:「殺せ」… デモ、目立つ過激言動− 毎日jp(毎日新聞)
ということで少し前に話題になってたお話。うーん、まぁ、オメガバカということでひとつ。
ちょうど二年前位の日記で「どうせ心配しても大したことなんて出来やしないからどうでもいいよね」と書いていたらご覧の有様です。見通しの甘い適当なこと書いてごめんなさいするしかありません。ごめんなさい。


ともあれ、現状を招いてしまったのは過激化とか右傾化とかそういうレベルのお話ではなくて、まぁ結局のところよくある「教育(しつけ)の失敗」という辺りなのかなぁと。私たちが後天的に獲得した『良識』という進歩の証は、不断の努力と教育の賜物として存在しているわけだから。きちんと言わなくちゃ教えなくちゃ解らないんですよ。
別に他所の子が将来どうなろうと知ったことではありませんけども、ただ、もし自分の子供が真似をしたら困るようなことはきっちり釘を刺しておかなくてはならないんです。子供は無垢で、純真で、つまるところバカなんだから、他所の子供がやっていることを見るとすぐ真似したくなってしまう。別に相手の親を非難しようとかそういう問題ではなく、自分のウチの子が「真似しないように」こそきちんとその悪質さを言い含めておくべきだったのです。
ところが私たちは「良かれと思って」彼らの愚行を看過してしまってきた。

 デモなどで特定の人々を公然と侮辱する「ヘイトスピーチ」が目立つようになっている。海外ではドイツやイギリスなどヘイトスピーチを処罰対象としている国もあるが、日本では「野放しの状態」(専門家)。標的となった人からは「危険を感じる」という声も上がっている。

ヘイトスピーチ:「殺せ」… デモ、目立つ過激言動− 毎日jp(毎日新聞)

そして今更ながらこんなことを言っている。ザ・後の祭り。


「あいつらがやっているから俺達もやっているのだ」

まぁ大変間抜けな発言ではありますけども、その言葉のもう一歩先には次のような意味も込められていることを『大人』である人びとは認識しなくてはいけないのだろうと思います。

「あいつらが許されている(ように見える)から俺達もやっているのだ」

確かにそれは注意すべき時に注意できなかった私たちの怠慢のツケでもあります。モラルハザードに近いもの。あの時、バカな他所の子供たちを見た時――その他所の子供自身に直接言うかは別として――きちんとそれが悪いことだと教えなかったせいで。
このお話で皮肉なのは、おそらく、元々あの時放置した大きな理由はむしろ「こちらが冷静な態度を採ることで憎しみの連鎖を避けようとした」という点にあるのでしょう。余計なお世話だと思ったからなのか、あるいはその境遇に同情し配慮したのか。ところがその態度は、現状を招いてしまった要因の一つともなってしまっている。


韓国の時も中国の時も、私たちは不安を覚えたものの、しかし放置してしまった。なんというニーメラー先生*1でしょうね。あの忌むべき「政治的無関心」と結果的に同じ場所にたどり着いてしまっている「政治的配慮」の帰結。