差別が社会問題の域に達していない

日本でヘイトスピーチの問題が大きくならない理由について。



ヘイトスピーチに賠償命令 京都地裁、初の判決  :日本経済新聞
そういえば少し話題になっていた判決が出たそうで。
http://matome.naver.jp/odai/2136125640096405801
辺りを読んでいて考えた、以下あくまで個人的な雑感による、適当なお話。

 判決などによると、在特会の元メンバーら8人は2009年12月〜10年3月、3回にわたり京都朝鮮第一初級学校(京都市南区)近くで「朝鮮学校を日本からたたき出せ」「スパイの子ども」などと拡声器で連呼した。

ヘイトスピーチに賠償命令 京都地裁、初の判決  :日本経済新聞

まぁバカげたお話ではありますよね。個人的に言えば、その振る舞いは間違いなく差別感情の発露でありヘイトスピーチの一種であるとは思います。仮に「進んだ」ヨーロッパの基準から見れば、言論の自由の範囲内なんてまったく言えないでしょう。おわり。
――ただ、じゃあ現在の日本で彼ら在特会のような言説が広範に支持されるのかというと、そんなことまったくないわけで。そしてだからこそ日本では、上記のようなヘイトスピートの問題がより大きな議論として取り上げられることもない。
しかし、ヨーロッパではまったくそうではない。あちらの差別問題と、日本のそれを比較して見れば、それはもうまったく違う次元にあるとしか言いようがありませんよね。だからこそ向こうではそれを「多少言論の自由が侵されるとしても」積極的に『戦う民主主義』として取り締まろうとしているわけで。それこそルペンさんやハイダーさんのような人種主義な扇動家が、日本で支持される余地があるのかというと、少なくとも現状ではまったくありそうにないよなぁと。
危機感がそもそもまったく違う。平和ボケだと言ってしまってはそれまでではありますが。




欧州で差別がよりセンシティブな問題として取り上げられるのは、やっぱりそれが社会において大きな割合を占めるからこそ、なわけですよね。同じ欧州内の移民だけでなく、アラブ、アフリカ、中国などなど世界中から集まる開かれた社会。故に彼らはそれを決して見ないフリなんて出来ない。
つまり、ただ人種主義や歴史的経緯といった抽象的な概念だけでは差別問題が大きな問題となることはないのです。そこで起きるのは増え続ける移民に危機感を覚え、多くの市民が「自分にも無関係ではない」と具体的に意識するようになってこそ、なのです。
――そしていつしかただの感情的反発にすぎなかったそれが『一線』を越えた時、その差別感情は現実の行動として暴力や政治的攻撃として発露することになる。
スタンフォード大学社会学部スーザン・オーザック先生は、その『一線』について、経済的競合関係こそが人種的紛争を引き起こす、と述べているそうで*1
つまり、そこで重要なのは「積年の恨み」の有無ではなくて、自らの生活のための職を奪う存在であるか否か、こそが問題であると。労働市場(やあるいは住宅問題や水資源分配)などの自らの生活上の直接的な競合関係が激しければ激しいほど、人種的紛争は大きくなる。まぁ言われてみれば当たり前の話ではありますよね。一部の物好きはともかくとして、日々の生活に追われる大多数の私たちにとって、わざわざ他人の人種がどうであろうとなんて気にするまでもない。しかしそこで本来なら自分が座るべきだった場所にガイジンが座っているとなると、怒りを抱かずにはいられなくなる。
「何故おまえが俺の国でのさばっているんだ!」なんて。
だからこそあの南北戦争による奴隷解放後のアメリカや、そしてより移民を受け入れる社会を志向する現代ヨーロッパなど、社会における平等性を追求すればするほどしかしその内部――特に移民たちと真っ先に経済的競合関係に陥る地元の貧困層を中心にして、致命的な差別感情が醸成されていくのです。ちなみに現代ヨーロッパでも差別感情が強いのは単に地元住民というだけでなく、貧しい移民たち同士でも同様なんですよね。
こうした下地があってこそ、より大きな社会紛争を招く人種主義な扇動家が活動する余地が生まれるのです。




で、翻って現代日本を見て、そうした構図があるのかというと、そんなことほとんどない。
そもそも上記ヘイトスピーチの例のように、何故日本がこのような――特に「進んでいる」とされるヨーロッパと比較して――愉快な構図になっているのかといえば、まぁもちろん「日本人の人権意識が遅れているからだ!」という批判もそれなりに当てはまる部分はあるのでしょうけども、しかしより身も蓋もなく言ってしまえば日本ではその閉鎖性故に、人種主義や宗教紛争が大きな社会問題とはなってこなかった、という根本的なお話であるんですよね。
だって元々受け入れてこなかったんだから。
だからこそ、私たちはこれまで小さくあった問題をほとんど無視して、見ないフリを続けることが出来ていた。
しばしば指摘される、こうした日本社会の閉鎖性は、逆説的に差別問題が大きくなることを抑制してきたわけであります。私たちはガイジンを差別するとかそういう問題以前に、そもそも、移民をはじめとする異邦人を積極的に受け入れようとはしてこなかった。その高いハードルが副次効果として、社会における摩擦を抑制してきたわけであります。
この閉鎖性の是非と、差別の問題は似ているようで、別の問題なんですよね。私たちはそもそも「受け入れて」ないのだから、「受け入れている」ヨーロッパのように社会におけるヘイトスピーチという問題が致命的な所にまで発展することがなかった。それ故に、上記のようにヘイトスピーチが殊更に問題視されるような社会にはならなかった。
単純に人権意識の遅れというよりはむしろ、彼ら在特会なんてどこまでいっても少数派なのだからそこまでムキになる必要がどこにある? という危機感に薄く平和ボケで気の抜けた無関心なポジションに立っている。もちろんこうした閉鎖性はこれはこれで別に批判されるお話ではあるのでしょう。ただ、やっぱりそれは差別問題とは(関連してはいても)別の議論ではないかと思います。
戦う民主主義のような概念、自由を侵すものの自由の束縛、をどこまで容認するのか? そもそも私たちはそれを考える所に立っていない。





差別を問題視する域にすら達していない私たち。単純に後進性というよりは危機感の薄さから、戦ってまでそれを守るほどではない、なんて。まぁ確かにそれは、別の見方をすれば、平和を謳歌している姿であるのかもしれませんよね。

*1:グローバリズムの「失敗」に学ぶ15の原則』P60