民主国家に「こそ」生まれるテロリストたち

より進んだ現代社会だからこそ生まれてしまう疎外。


ボストン爆発事件の容疑者兄、イスラム過激思想に傾倒か 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
北カフカスのイスラム勢力、ボストン爆発事件の容疑者兄弟との関係を否定 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
ボストン爆発の容疑者、意識回復 筆談で取り調べに応じる 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
ということでボストンマラソンから始まったテロ騒動は一応は決着を見たそうで。

【4月22日 AFP】米ボストン爆発事件のジョハル・ツァルナエフ(Dzhokhar Tsarnaev)容疑者(19)が警察との銃撃戦で重傷を負って話せない状態が続くなか、死亡した兄のタメルラン・ツァルナエフ(Tamerlan Tsarnaev)容疑者がイスラム過激思想に傾倒していた可能性に注目が集まっている。

 タメルラン容疑者は2011年に米連邦捜査局(FBI)から事情聴取を受け、2012年にはイスラム武装勢力の活動が活発な北カフカス地方に6か月間滞在していたにもかかわらず、なぜ野放しになっていたのかという点が指摘され始めた。

ボストン爆発事件の容疑者兄、イスラム過激思想に傾倒か 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

で、まさかのチェチェン絡みとか言われているそうで。「アメリカ人の友達がいない」なんて。まぁもちろん実際のところどうなのかはこれからの捜査を待たなければならないでしょうけども、しかしこれまでの流れを見る限り、まぁよくある話になってしまったなぁと。
聖戦主義者はどこにでもいる - maukitiの日記
何故かこの事件直前にタイミングよく書いていた自分のタイミングの良さにびっくりな上記日記でも少し書きましたけど、実のところ、現代の『聖戦主義』というものの多くが(ヨーロッパ)欧米育ちにあるんですよね。所謂『ホームグロウンテロリズム』について。
それはもちろん監視の目を潜り抜けやすいということでもあるし、同時にまた、その「動機」も存在しているということでもあります。つまり、彼らは自身に「民主主義が認められていない」から聖戦主義に走っているのではなく、民主主義社会に「ありながら」疎外されていることに絶望するのです。
権利が認められていないのならばその為に戦えばいい。しかし今回のように表面上は寛容に受け入れられている一方で、その実まるっきり無視されているのならば一体どう対応すればいいのか?
そうして社会から――「非寛容」ではなく「寛容」によって――疎外され断絶された『デラシネ』な人々もまた、民主主義がまったく認められない人びとと同様に、その絶望から聖戦主義に走るのです。


「文化的自由の為の多様性を維持する為に文化的自由を制限する」人びと - maukitiの日記
結局こうしたお話は、こちらも以前書いた現代の「多文化主義」の限界についてのお話でもあるのです。
つまり、私たちは一見『多文化主義』を謳いながら、しかしその実お互いの「文化」「生き方」と言ったナイーブな問題について、何処まで口を出していいのか合意できていないし、そもそも解らない。故に表向きは『多文化主義』を唱いながら、その内情は異文化な相手に対して干渉しない=見ない=無視することで、私たちは現在の『多文化主義』をどうにか維持しているのです。
融和することで新たな一つ文化を生み出すわけではなく、それぞれが個々にそれぞれ乱立しているに過ぎない。
もちろんそれは昨今の欧米社会の苦しみを見て解るように、単純に「受け入れる側」だけの問題というわけではありません。「受け入れられる側」の人々だって同様に、我々の文化を侵害しないで欲しい、と願う人は少なからずい存在していたりするのです。果たしてそれは多文化主義として正しいのか?
かくして、現在のような妥協の産物が生まれることになる。アマルティア・セン先生などはこれを『多文化主義』ではなく、むしろ『複数単一文化主義』に過ぎないと否定的に述べております。
だからこうした聖戦主義者が生まれる土壌は一般に、民主主義と多文化主義がより進んだ社会であるほど、大きくなっていくのです。まさに現代的に「寛容な社会」であればあるほど、少数派な人びとはより「透明な存在」になっていく。


故にこれまで、この様な「社会から断絶されたテロリスト」が生まれるのはこれまでヨーロッパが多かったわけです。
ところがこうしてアメリカでも大きな存在となりつつある。それはある意味であの『9・11』を乗り越え立ち直りつつある――解りやすいイスラム憎悪からようやく脱しつつある、彼らアメリカの成熟の現れでもあるのかもしれません*1
例えば(日本のように)「社会に同化しろ」と同調圧力が強い社会では、逆説的にこうしたテロとは無縁なのです。だって彼らは解りやすく「異物」として認識されてもいるわけだから。だったら正々堂々そんな社会からの「差別」に対して戦えばいい。そして民主主義社会にあるのであれば、正しく民主主義的な手段を採ればそれでいいのです。
――ところが、それがなまじ「多文化主義」として表向き完遂されてしまうと、最早彼らにはまともなやり方で戦う術がなくなってしまう。実際には「透明な存在」として無視されているにも関わらず、しかし建前としては彼らは社会の一員として既に受け入れられているわけだから。
憎悪や排外するのは論外ではあるけれども、しかしだからといって「敵対的でもないけれど、友好的でもない態度」「無視」を止めることも絶対に出来ない私たち。


理念が現実に追いついていない。
こうなると結果的に、民主主義に反して差別を温存しようとする社会、とかなり近いところに辿り着いてしまう。その果てにあるのは、銃か爆弾を手に取る以外にない。


この現代社会における致命的なギャップこそが、こうした悲劇を生んでしまうのではないかと思います。
まぁそれでも上記『多文化主義』についての日記のコメントで頂いたように「それでも半死半生のままやっていくしかない」というのは僕も同意するしかありません。それでも私たちは「あからさまに差別する」よりは、「建前の上だけでもそれを認めた方がずっとマシだ」というのは確かにその通りです。
あからさまな差別から、取り澄ました無視へ。
敵対的な「差別」というよりはより中立的な「無視」による疎外と孤立。宗教だけでなく人種・文化・趣味嗜好まで、より進歩した現代社会だからこそ発生してしまう、ありふれた悲劇とも言えるかもしれません。
それでも、21世紀の現代に生きる私たちにとってそれは進歩と言って良いのでしょう。決してゴールだなんて言えませんけど。


みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:まぁ単純にアメリカが中東から撤退することで、そのターゲットが現地米軍から(再び)国内に移ったという見方もあるんですけど。