ヨーロッパにとっての『9・11』になるか?

14年前の『9・11』を契機にしたアメリカの「世界の警察」の縮小に続いて、ヨーロッパの「世界における人道主義の主導者」という自負も後退するか。


難民危機で試される欧州の価値観 高くつき、不都合であっても信念を貫くことができるか? | JBpress(日本ビジネスプレス)
うーん、まぁ、そうね。

もし欧州の政治家がその道を進んだら、当然、「欧州の価値観」を守らなかったと批判されるだろう。だが、現実には、彼らは価値観の衝突に直面している。

 メルケル氏は、欧州には正真正銘の難民を受け入れる道義的、法的責任があると述べた。だが、民主主義国で活動する政治家には、自国の有権者の望みを尊重する道義的、法的責任もあるのだ。

難民危機で試される欧州の価値観 高くつき、不都合であっても信念を貫くことができるか? | JBpress(日本ビジネスプレス)

理念と現実が「衝突」しつつある、というのは概ねその通りかなぁと。経済発展・安全保障という要請もあった欧州連合構想でしたが、それでもその熱意の中で大きな割合を占めていたのが『人道主義』でもあったわけですよ。
まさに現代のヨーロッパ周辺=特にシリアの破壊された都市群である「硝煙くすぶる瓦礫の山」というのは、ほとんどそのまま大戦直後のヨーロッパの姿そのものでもありました。戦争の恐怖という惨状があったからこそ、彼らはヨーロッパに戦争のない新たな家を構築しようと努力してきたわけで。
その意味で言えば、彼らを救うことは欧州連合プロジェクトの根幹にある人道主義に確かに適う一方で、しかし同時にまたそうした価値観はヨーロッパ外にまで広めるべきなのか、という疑問も呼び起こすことになる。
もし欧州連合アメリカに伍する『超大国』を夢見るのであれば、それを受け入れる必要がある。何故ならそれこそが、アメリカとはまた違った意味で世界を背負うと自負する、彼らの大義名分であってきたから。実際、軍事バカなアメリカと比較して、ヨーロッパはそれを誇りにしてきたわけですよね。
アメリカの自称『世界の警察官』と同様に、その自負が妥当かどうかはともかくとして、ヨーロッパこそが国際社会の人道主義の中心を担う存在であると確信している。
――しかしそれは今回、自国=ヨーロッパ自身の安寧と引き換えになる可能性がある。


『9・11』以降アメリカが世界の警察という役割を縮小させたのは、あの事件によって彼らが熱狂しやり過ぎた結果がその死期を早め今に繋がっている。それと同じくヨーロッパも今当時と似たような熱狂に陥りつつあるんじゃないかと。
受け入れ拒否は当然として、ところが今採ろうとしているように受け入れても「その後の」対応に失敗すれば揺り戻しが来るのは間違いない。そうなれば、どちらにしても結果として自ら誇ってきた世界における「コモンセンスの先導者」という役割を縮小させることになるでしょう。ヨーロッパは口では普遍的な人道主義を唱えながら自分の事となるとあのザマだ、なんて。


その意味で今回彼らが問われているのって、善意の限界であると同時に、彼らなりの超大国の覚悟でもあるのかなぁと。だからこそ、そうした志向の強いドイツやイギリスあるいはフランスが、受け入れに積極的なのはこうした理由も大きいのではないかと思います。
一足先にアメリカは降りつつあるものの、ヨーロッパ連合は尚も超大国としての義務を果たし続ける覚悟があるか?




みなさんはいかがお考えでしょうか?