誇大広告だと怒られない程度に話を盛る能力

だいふっかーつ!(仮
リハビリがてら適当な話題を適当に書きます。



中日新聞が記事を削除 貧困巡る連載「想像で書いた」 (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース
うーん、まぁ、そうね。

 中日新聞社名古屋市)は、中日新聞東京新聞に掲載した子どもの貧困をめぐる連載記事に事実とは異なる記述などがあったとして、両紙の12日付朝刊におわびを掲載し、当該記事を削除した。

 同社によると、問題となったのは、5月に中日新聞朝刊で6回連載した「新貧乏物語」第4部のうち、父親が病気の女子中学生を取り上げた19日付朝刊の記事。生活が厳しくて教材費や部活の合宿代が払えない、とした部分など3カ所が事実ではなかったという。

 記者は家族らに取材して取材メモをつくっていたが、この部分は「原稿をよくするために想像して書いてしまった」と説明しているという。家族から指摘があり、同社が社内調査をした。同じ記事は6月に東京新聞にも掲載された。

中日新聞が記事を削除 貧困巡る連載「想像で書いた」 (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

まったくのゼロから創作したのではなく「話を盛って」しまったという点で、個人的には擁護こそ出来ないけども情状酌量の余地はあるかなぁと。よりリーチしようと多かれ少なかれみんな(もちろん自分含む)やっている話ではあるしね。要は日本の新聞の長年の慣行通りだろうというとクソ感が増してしまいますけど。


ということで今回こうしてラインを越えてしまった記者の人が「新聞記者」としてはともかく、人として特別に悪質なのかというとやっぱりそうではないと思うんですよね。もちろん単純に悪意や肥大化した正義感や政治的ポジショントークの為にそうする人たちも居て、そんな悪魔たちっていうかクズが存在するのは皆さんご存知の通りであります。
――しかし、かといって誰もが無垢なままそんな「話を盛る」罪を単純に責められるかというとやっぱりそうではないでしょう。
まさに社会的動物である私たちは、それこそ円滑なコミュニケーションの一環として、自らの実体験から伝聞話まで良かれと考え――それすら半ば無意識であることがしばしばある――話を「盛る」わけですよ。だってそうした方が話が良く通じるし、話題のスパイスになるし、そもそもお互いに大人であれば話相手とお互い半ば暗黙の了解として受け入れている面すらあるから。
良い話も悪い話も、とりあえず数字やなんやら盛っておこう、なんて。


実際、こうした「盛る」手法って、ある程度現代メディアを真面目に読んでいる人たちからすれば当たり前の話ではあるし、更にはみんなだいすきNHKの『大河』からハリウッドまで、伝記作品なんかでもごくごくありふれた手法でもあります。シナリオを膨らませる為に実際には何でもない出来事を針小棒大に表現したり、ストーリー上不都合な情報を削除・改変したり、かわいいお色気ヒロインを登場させたり、いきなり現代風ポリコレに配慮してみたり。

この物語は実話に基づいている

(キリッとか言いながら。いや僕もプライベートライアンとかアルゴとかリンカーンとか大好きですけど。


この構図で面白いのは、しかしそうやって平然となされる偽造のプロセスに私たちはすっかり慣れ親しんでいて、今更特に疑問にすら思わないという点にあるんじゃないかと。古代から続くだろう伝統的なウケ話として。まったく荒唐無稽なウソというわけではないものの、おそらく多かれ少なかれ話が盛られていることは薄々勘付いているし、一線を超えない限り敢えて指摘するのも野暮だとすら思ってたりする。
せいぜい聖域として残されているのは学術論文くらい? 盛られてない情報は、ありまぁす!
それでも、やはり最初に戻ると私たちの大多数はミクロの日常会話からマクロのマスコミまで「盛られた」話こそを好んでしまう。にんげんだもの
ネットの発達と共に進む現代世界を、活版印刷に並ぶ情報量爆発の時代だという人は少なくありませんが、しかし結局その大爆発した情報の大部分は「盛られた」話だったよっていうオチ。


そう考えると、こんな右も左も盛り盛られてしまった世界で、新聞記者にだけある種の誠実さを求めるのはちょっと酷かもしれないね。
――あ、やっぱ自分たちこそが「ニュースの正しき送り手」とか自称してて自業自得感なのでもっと炎上すればいいと思います。ざまぁ。


みなさんはいかがお考えでしょうか?