本当に「イスラムが悪い」ならば彼は無罪なのか?

これがゲームの影響だったら、さっさと規制できていたのにね。


ニューヨークでトラックが歩行者攻撃 8人死亡 - BBCニュース
ニューヨークのトラック攻撃 「ハロウィーンねらった」 - BBCニュース
「イスラム国の映像に触発」 テロ手引書に従い犯行
またもや自動車テロがあったそうで。射殺しなかったのは珍しい決着で、ぶっちゃけこんなの裁判しちゃってあちらの世論は大丈夫なのかなぁ。オバマさん時代のビンラディンの時のようにぶっ殺した方が楽そうなのに。

 サイフロ・サイポフ容疑者(29)は、レンタカーで歩行者などに突っ込んで8人を殺害したテロ行為などの罪などで1日に訴追されました。容疑者の携帯電話には「イスラム国」が公開した処刑映像や画像など数千点が保存されていて、取り調べに対して「映像に触発された」と供述しています。また、事件の10日前にはレンタカーで犯行の練習を重ねるなど、「イスラム国」が作成したテロの手引書に従って犯行に及んでいて、「人出が多くなるハロウィーンを狙った」などと供述しています。サイポフ容疑者は、取り調べ中に自分の病室に「イスラム国」の旗を飾るよう要求したり、「良いことをした気分だ」などと語っているということです。

「イスラム国の映像に触発」 テロ手引書に従い犯行

うーん、ヤバそう。
今度は降車後にあるいつもの銃撃フェーズすらも模造銃というオチで、すっかりテロが「車」こそが主力武器になっちゃった感。実際、先日のラスベガスの事例が教えてくれるように、たくさん殺そうと思うなら弾倉数や連射性能といった面から、単に拳銃というレベルにとどまらないもずっと強力なモノが必要になるわけで。そして軍用とまではいかなくても殺傷力の高い銃器というのは、幾らアメリカといえど揃えるハードルは高い。
――それならいっそ「自動車」でいっぱい轢いちゃえばいいじゃない!
というのはまぁとってもお寒い現実ではあるものの、しかし私たちも理屈としては理解できてしまうお話でしょう。


しかしこうして実際に車が主役となると、ほんとそのまま『GTA』の世界ですよね。もし犯人の家に『GTA』のプレイ記録が残っていたりしたら*1、一部の人たちにとって半ばアンタッチャブルな『イスラム』と違ってもうなにもかも「ゲーム」の責任の矛先を向けることが実現出来たのにね。本邦でも話題の座間のアレでもそうですけど、ゲームのせいであの人はおかしくなってしまったのだ、なんて。今でも結構聞かれる=許容されている愉快な言説ではあります。まぁにんげんだから仕方ないよね。身近にひそむ未知の恐怖=突然の凶行に際して、何らかの説明を付与することでただただ安心したいんだもん。
でもそれは大きなミステイク。かもしれない。
つまり、ゲーム脳の存在を認める人は、あるいはその行動要因を認めてしまう人は、同じように『イスラムのせいで』という論理を認めているのだろうか?

  • ゲームをやっている人たちはいつか暴力的行動に出るのだ!
    • が真であるというポジションに立つならば、
  • イスラムをやっている人たちはいつか暴力的行動に出るのだ!
    • もまた(場合によっては)真となるのか?


そしてそれらの推論の先にあるのは、「〇〇が悪いならば、その人物自身に罪はない」という領域でもある。


まぁこの話題って古くて新しい哲学議論ネタではあるんですよね。何らかの因果関係を説明できてしまうと言うことは、その行為の自由意志と責任を弱める方向へ行く可能性が高い。実際、私たちのすばらしき科学進歩はその多くの知見によって、様々な行動の『説明』ができる範囲が広がりつつあるわけですよ。精神的ストレスや、生育環境や、そして遺伝子によってすら。
もちろん自由意志が全てだ(すべて自己責任だ)ということも、決定論のように自由意志などまったくない(自己責任がない)というのは極論であるのはおそらく間違いない。
ならば、犯罪行為に際して私たちの自由意志とは一体どの程度あり、そして自己責任はどの程度求められるものなのか?


伝統的な倫理的推論のテーマについて。「ゲームのせいだ!」という人も、「イスラムのせいだ!」という人も、まぁ主張自体は自己責任の範疇で個人のお好きにすればいいとは思いますけども、その行動要因を設定した先にある倫理的責任の設定についても考えておいて欲しいなぁと思います。


ダニエル・デネット先生が言うように、自分が納得できるからといって迂闊にその行動の原因を説明してしまうことは、つまりそれは蛮行に対する無罪証明への道でもあるのだから。
みなさんはいかがお考えでしょうか?