マクロンは「光あれ」と言われた。

30年越しの国家理性からの関白宣言。


フランスは「風刺画やめない」 マクロン氏、教師国葬で宣言 写真11枚 国際ニュース:AFPBB News
マクロン仏大統領「自由と理性を守る」 殺害された教師の追悼式で - BBCニュース
ということで国葬が行われたそうで。

【10月22日 AFP】イスラム教の預言者ムハンマド(Prophet Mohammed)の風刺画を授業で見せたことを理由に殺害されたフランスの歴史教師サミュエル・パティ(Samuel Paty)さん(47)の国葬が21日、パリのソルボンヌ大学(Sorbonne University)で営まれた。エマニュエル・マクロン(Emmanuel Macron)大統領は弔辞で、「われわれは風刺画をやめない」と宣言した。

 マクロン氏は、同国の最高勲章「レジオン・ドヌール(Legion d'Honneur)」をパティさんに授与。弔辞では、パティさんはフランス共和国の世俗的、民主的な価値観を体現したことで「臆病者たち」により殺されたと述べ、「彼は私たちの未来を奪おうとしたイスラム主義者らにより殺害された」、「私たちの未来は決して渡さない」と宣言した。

フランスは「風刺画やめない」 マクロン氏、教師国葬で宣言 写真11枚 国際ニュース:AFPBB News

フランス・パリ近郊で男性教師が首を切断されて殺害された事件で、被害者のサミュエル・パティさん(47)の追悼式が21日、パリ市内のソルボンヌ大学で行われた。

参列したエマニュエル・マクロン大統領は追悼演説で、パティさんを「静かな英雄」と称賛。「自由と理性を守っていく」と述べた。

マクロン仏大統領「自由と理性を守る」 殺害された教師の追悼式で - BBCニュース

いやあ、ものすごくザ・『国家理性』推しで、ここまで「理性の光」なんて直接言ってしまうなんて清々しさを感じてしまいます。
現代版「国家理性vs宗教的情熱」 - maukitiの日記
まぁこの辺の「やはり国家理性、……国家理性こそが全てを解決する!」なお話についてはシャルリー・エブドで大盛り上がりしたフランス政治社会を見ている限り、当然の帰結というかさもありなんという感じだよねえ。
国家理性はもちろん宗教に優越する、なんて。


ちょうどかの事件の裁判をやっているタイミングでもあって、
仏紙シャルリ・エブド、ムハンマド風刺画を再掲載 裁判開始で - BBCニュース
これまで曖昧にしてきた社会におけるイスラムとの共存関係における越えてはいけないラインの線引きを一気にハッキリさせようという強い意志を感じてしまいます。
悪魔の詩ラシュディ事件から広く始まったものの、30年近くイスラムはマイノリティだからと配慮――というか放置されてきた「表現の自由」と「神への冒涜」の致命的な対立の一つの解答。
いやぁ、あれから30年を経てようやくというべきか、ついにここまでというべきか。


この辺の思い切りの良さというのは、フランスという国家の強みでもあり、近代国家として世界の先駆者だったという自負もあるのでしょう。
その意味で、確かにフランスは今ふたたび世界の先駆者ポジションにあるのかもしれない。今回も勝てるといいね。
かつてキリスト教にもそうしたような宣戦布告というとアレですけども。あるいは関白宣言か。

お前たちを社会に同化させる前に言っておきたい事がある
かなりきびしい話もするが
俺の本音を聴いておけ





さて置き、フランスを中心にこうしたトレンドが生まれつつあるヨーロッパにおいて、したたかというか狡猾な態度変更を見せているのがキリスト教だと思うんですよね。
ローマ教皇、同性カップルの法的保護を支持 「家族になる権利ある」 - BBCニュース
イスラムと違って、もう100年以上前にフランスという国家から関白宣言を突き付けられたキリスト教は、柔軟に=時代に合わせて教義を変えることで生き残りと影響力の維持を図っている。

ローマ教皇はまた、自分は同性カップルの権利のために「立ち上がった」とも述べた。これは、ローマ教皇ブエノスアイレス大司教時代に、法律で同性婚を認めることに反対していた一方で、同性カップルのための法的保護の一部を支持していたことを指しているとみられる。

教皇の今回の発言は、同性愛者の権利容認について、これまでで最も明確なものと受け止められている。

しかし、BBCのマーク・ロウェン記者は、教皇ははっきりと同性愛者の権利について言及はしたものの、カトリック教会の教義自体が変更される兆しはないと指摘した。同性愛者などの重要な事柄について教義を変更するには通常、まずは内部で議論した後、もっと正式な形で提示されるという。

ローマ教皇、同性カップルの法的保護を支持 「家族になる権利ある」 - BBCニュース

従来どちらも「同性愛忌避」というポジションでは大して違いはなかった両者であったものの、しかし皮肉にもイスラムの台頭と併せて「現代の」キリスト教はかなり明確にその容認に舵を切りつつある。。
もちろんこれってあくまでシビルユニオンであって『結婚』とは似て非なる最後の一線では明確に異なる形での容認ではありますけども、それでもこの小さな一歩はリベラルな社会にとって大きな一歩であることは間違いない。


穿った見方をすれば、同じ宗教ではありながらも「イスラムと差別化」に熱心な人たちだよねえ。
宗教本来の純粋さを尚も維持しようと努力を続けるイスラムと、その本来あた教義の解釈を変えながらどうにか生き残ろうとするとキリスト教
――そしてそうした宗教たちに尚も『理性の光』という大正義を掲げ続ける現代国家。



ヨーロッパにおいてはキリスト教との戦いが終焉したことで近代国家が生まれもはや過去の遺物となったはずのこの戦いが、現代においてイスラムという新たなチャレンジャーが現れることで再開されつつあるのは、ホント面白い歴史の皮肉だよなあと思わずにはいられません。
社会における政治と宗教の境界線について。


みなさんはいかがお考えでしょうか?