いいないいな人間っていいな

――でもそもそも『人間』ってなに?



Googleのエンジニアが「ついにAIが実現した」「AIに意識が芽生えた」と訴える - GIGAZINE
「GoogleのAIが感情や知性を獲得した」というエンジニアの指摘は間違っていると専門家から批判が殺到 - GIGAZINE
「AIに意識が芽生えた」と主張したGoogleのエンジニアが解雇される - GIGAZINE
最初にニュースを見た時には一瞬シンギュラリティktkrとwktkしましたけども、まぁ落ち着いて見たらスン……ってなっちゃうやつ。
ただまぁこうしてオチとして解雇されると、余計に才能を理解されない不遇な天才感出ていいよね。この後「私は好きにした」しちゃいそう。

科学者で作家のゲイリー・マーカス氏は「LaMDAも自然言語処理システムのGPT-3も知性ではありません。彼らはただ人間の言語の大規模な統計データベースから一致するパターンを抽出しているだけです。パターンはかっこいいかもしれませんが、LaMDAやGPT-3が発する言語には何の意味もありません」と述べ、ルモワン氏の主張を否定しています。

マーカス氏は「知覚力があるということは、世界で自分自身を意識することです。LaMDAは全くそうではありません。それは幻想です」と述べ、LaMDAがいかに哲学めいた文章を出力しても、それは単語同士のつながりを意識して生み出されたものであり、実際に世界を認識した結果ではないと指摘しています。加えてマーカス氏は、ルモワン氏はまるで家族や同僚のようにLaMDAに入れこんでいたようだと評しました。

マジレスとしては所謂「汎用人工知能と特化型人工知能な機械型学習の違い」な基本的なお話ではありますよね*1
後者でそれが実現する可能性ももしかしたらあるかもしれませんけど、やっぱりスタート地点から違うのはその通りなのでしょう。


ともあれ、しかし個人的にこの話題で面白いと思っているのは、「AIが人間の知性あるいは意識と同等になる」という目的それ自体が、そもそも「人間とは何か?」という最初の問題に回帰してしまうところじゃないかと。
最前線の問題が、最も根本的で原始的な問題とこれ以上ないほどリンクしている。
人間と同等あるいはそれ以上になったことを確認するためには、そもそも人間と見做されるだけの能力の定義について設定するのを避けられないわけで。この問題が単純にAI開発者たちの認識によるというよりは、むしろ哲学者などの領域であると言われるのはそういう理由でもあります。
人間として認められる意識や感情や知能のラインは一体どこなのか。
一方でこの議論があまり公にされないセンシティブな話題でもあるのは、割と私たち自身の経験上からもそういうラインの境界線上に色々な意味で心当たりがあってしまうからでしょう。最近でも尚燃え続けているアメリカの中絶問題、あるいは本邦でも尚続く死刑などもこの『人間の定義』とほとんどそのまま地続きでもあるわけで。。
そのラインを決めた場合の副作用がおそろしすぎる故に議論すらも及び腰になってしまう。
ではそういう能力を生まれつき持っていない人たち――例えば共感性に欠けるとされるサイコパスなど――は人間とは言えない人間未満なのか? なんて。


しばしば最も強い非難の言葉――逆説的に本邦ネット上でもカジュアルに溢れている――「人間じゃない」という言葉にすら、そこにはそもそも「人間らしさ」とは何かという定義の同意が含まれているわけで。
嫌いな対象をそのラインを下回っている(と思っている)相手として普通に「人間じゃない」扱いしている人たちが居てすごいよねえと素朴に思ってしまいますけども。
現代でも尚明確な答えが出されていないこの問題について、きっと彼ら彼女らには自明なことなのでしょうね。あるいは何も考えてないだけなのかもしれませんけど。


かつては私たちの社会でも異邦人や異教徒や野蛮人や黒人や女性や子供たちが「人間扱い」されてこなかったことを考えると、色々と考えが膨らんでしまいます。
『まだ人間じゃない』のだと。
今後も続いていくだろうAI開発が避けては通れない「人間とは何か」について。
考える葦である市井の哲学者なみなさんはいかがお考えでしょうか?