相対評価と絶対評価の壁

賢いイルカさんの話でちょっと前に何かの賞とったあれ、のお話。
探偵ファイル〜ニュースウォッチ〜/イルカ映画「ザ・コーヴ」監督の最大の矛盾とは何か/探偵T
痛いニュース(ノ∀`) : 「ザ・コーヴ」監督「知能が高いイルカの殺害はアウシュビッツに等しいが、家畜は問題ない」 - ライブドアブログ

アウシュビッツでの虐殺と比較して、日本のイルカ漁は「私は同じ程度の人類に対する犯罪行為であると考えている」と、サイゾーのインタビューで監督は発言した。一方、「86年に屠殺場を見た経験から牛や豚を食べられなくなった。妻や子どもには食べるなとは言わないし、日本人にもそれを要求しない」という。

「家畜は、殺されて食べられるためだけに劣悪な環境で管理・飼育され、残虐に殺されて短い生命を終える」との非難が、欧米を中心に動物愛護団体等から多くなされてきた。年間を通じて膨大な数が各地で屠殺されている家畜については、監督は自身の信念を他人に強制しない。それならば、遥かに少ない頭数が殺されるイルカ漁に関して、なぜ私見を他人に押し付けることを正当化できるのか。

探偵ファイル〜ニュースウォッチ〜/イルカ映画「ザ・コーヴ」監督の最大の矛盾とは何か/探偵T

なるほど。言いたいことは解る。賛成できるかともかくとして。ここで問題となるのは、この監督のような彼らが人間とイルカの権利を同じ程度に重要だと考えているという点と、例えば私たち一般的な日本人が考えるような「いや人間の権利の方が重要だろ」と普通に思考する点。彼らは相対基準で考え、私たちは絶対基準で考えている。
そして彼らは私たちを非難できる。イルカを差別していると。まぁ確かにある意味では彼の言う通りかもしれない。


彼らにとって重要なのは、絶対的な評価でイルカが低いと糾弾しているわけではない。彼らは、相対的に見て、私たちにとってのイルカの地位が低い事に怒っている。その扱いについて適切な基準にあるかどうかではなく、差がついている事こそが問題だと。
その意味で、自分の愛犬を本当の家族扱いしてくれないと怒る飼い主、のようなケースと違いは無い。
彼らはどれだけ「大事なペット」として扱っても満足しない。家族と同等である、と認めなければ満足しないのだ。
そんな個人的なペットの問題で済んでいたら平和だったかもしれない。しかしそうはならなかった。まぁぶっちゃけてしまえば「自意識の肥大化」というよくある話に落ち着くんだけども。


さて置き、んじゃ何でこんな所まで彼らは到達してしまったのか?という事について考えてみると、まぁ過去の贖罪の気持ちなのかなぁという気はする。実際今回の彼もアウシュビッツの例を持ち出しちゃうわけで。贖罪という罪の意識をこじらせた結果が、そんな原罪と同じ手法に回帰しちゃってるのはなんというかまぁ歪みすぎてちょっと怖いと言うか面白いと言うべきか。
影響力が無ければ笑ってみていられるとは思います。ペット=家族、の構図のように。しかしそうはならなかったのが両者にとっての悲劇ですよね。