終身刑や死刑の先にあるもの

「人を社会的に抹殺するシステム」な死刑と終身刑のお話。その先にあるもの。


NY爆破未遂事件で被告に終身刑 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
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 同被告は「俺たちは自分たちの宗教、人々、誇り、そして土地を守ろうとしているイスラム教徒に過ぎない」と述べながらも、「イスラム教徒である俺たちをテロリストと呼ぶのなら、俺たちは誇り高きテロリストであり、俺たちの土地と人々が解放されるまでテロ行為を続ける」と付け加えた。

 同地裁のセダーボーム裁判長は「被告は反省の意を示さずに自らの願望を訴え続け、機会があれば罪を繰り返すと述べた」とし、被告に終身刑を言い渡した。

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うわぁコワイ。さぁいつものように、死刑反対派も賛成派もそして終身刑派も、どうぞファイトしてください。こういう事例の時にこそ、死刑の先にあるもの、を考えるべきだと思うんです。


以前の日記でも書きましたが、結局の所、死刑や終身刑が意味する所は「どうしようもない人間を排除するシステム」なんですよね。
死刑は人道上許されないと考える一部の人たちは今回のように終身刑なら許されると考えているし、「人を死ぬまで一生閉じ込めておくのはある意味で死刑よりヒドい扱いではないですか?」*1と考える人は死刑だって人道的に許容されると考えている。まぁどっちみちそのどちらも「どうしようもない人間を排除するシステム」であることはやはり間違いないわけですけど。


さて置き、実際の所そのどちらも拒否するような、死刑も終身刑も両方残酷だからやめるべきだと考える人は確かに居る。まぁそれはそれで一つの考えだとは思います。
今回のこの被告はもう本当にどうしようもなくて、反省どころか自らの信念と正義によってなすべき事を成したと自画自賛状態です。しかしその正義が本当に正しいかどうかはここでは問題ではないんです。それは、もし死刑も終身刑も残酷であるとするするならば、この「もう一度やる」と断言するような被告を一体どのように扱えば良いのだろうか? という点。
彼は、本当に、自らの正義を信じている。だからもし彼を再び一般社会に戻そうと思うなら、その為にはその正義を塗り替えるしかない。
そうした彼の内面を教育や学習によってほとんど強制的に変化させる、言ってしまえば洗脳や矯正のレベルで、行うことは死刑や終身刑よりも道徳的だと言えるだろうか?


ある意味これってサイコパスのような事例よりもずっと、めんどくさい話なんですよね。そんな「人格障害」ならば病気だからと単純に「直す」ことができたのに。
しかし、ほとんど正常な人間が己のイデオロギーで無辜の人を殺すことに対して、私たちにはそれを矯正させる権利があるだろうか? 
もしあるとするならば、それは一体どこまで個人の思想・人格を矯正しても許されるのだろうか?


私たちの許される事と許されない事を分かつ「人間の条件」。

  • 人間が人間を死刑にする権利はあるのか
  • 人間が人間を一生閉じ込めておく権利はあるのか
  • 人間が人間をその内心を自由にさせる権利はあるのか

つまるところ、社会総体としての基準が依拠する「人間の条件」をどこに設定するべきなのか、というお話でした。

*1:私個人なポジションで言えばこれに近い