「法律で禁止されていないのが悪い!」の発言の先にあるもの

ということでユッケ社長な前回日記の続きのお話。むしろこっちが本編でした。


http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1620291.html
さて置き、この社長は「法律で禁止されていれば(私たちだってこんなことやらなかった)」的な釈明をしておりますけれども、しかしまぁ反感を買うばかりで全く意味のない発言ではありますよね。前回日記で書いたように、結局の所、法律禁止されていようがいまいが結果として受ける罰(経営への損失)は変わらないんだから。まさか法律で禁止されていれば、こうして死者まで出したという悪評が広がらなかったとでも思っているんだろうか。そんなもの消費者にとってはどちらにしても変わらないのに。
究極的には消費者にとってはその詳細な安全基準などどうでもよくて、「結果的に当たるか当たらないか」こそが重要でしかない。


まぁそれでも一般の感情としては、今回の事件を受けて「そうなのか、なら国がきちんと責任をもって規制すべきではないか?」という意見自体は理解できないものではありませんよね。公的な規制がないからこそ(消費者の安全性を無視した)企業が出てくるのだろう、という推測・予測。
しかしながら、そもそも「規制があればこうした事故は減るだろうという推測って正しいのか?」と聞かれると、実の所微妙な話ではあるんですよね。
つまり、現代社会に生きる私たちは誰だって一般に「生もの」を食べる時に、多かれ少なかれリスクを覚悟して食べているわけであります。
前述のように僕はユッケは食べる気がまったくしませんけど、それでも「生牡蠣」ならほんともう苦渋の決断としてたまに食べてます。だっておいしいから。その極わずかな「おなか痛くなる」リスクを勘案した上で、それが数%なのかコンマ数%なのかあるいはもっと極小の可能性を、意識的にあるいは無意識的に見ないフリをした上でその選択をしている。いい大人なら誰だって解っているんです「生ものは危険性がある」と。
重要なのは私たちのその敢えて選択するリスクについて、それはもう「人それぞれ」の基準でしかないんですよね。例えば僕が生牡蠣は食べても生肉はほとんど食べないように。逆の人だって当然居るでしょうし、中には刺身さえも食べないなんて人も居るでしょう。


その上で『公的な機関』とやらが、一体何を・誰を基準にその安全性を設定するというのだろうか?


結構有名なお話ですけど、実際販売されている生食用の牡蠣でさえも、ある程度のリスクは常に存在しているんですよね。(本人の体調次第の面もあるけれど)高く主張する意見だと50%に近いなんて人も居るくらいで。それでも現実に牡蠣は販売されている。別にそれは公的な規制がいい加減なわけではなくて、「そういうもの」として販売されているから。仮にあたる可能性やリスクを限りなく低く設定しようとすれば、生牡蠣だっておそらく販売なんてできない。
その上で、販売しようとすればやっぱり誰がどう設定した所で、生ものにあたってしまう人は出てきてしまうわけで。
だからこうした構造において「法律で決めれば防げる」なんてかなりの幻想だと僕は思うわけです。


それぞれのリスクについて、やっぱり私たち自分自身で判断するしかない。
当たり前のことではあるし、そして現実に私たちはそう振る舞ってもいるんですよね。つまりその『公的な規制』なんて存在しなくても、おそらくこの事件を覚えている限り、ほとんどの人は今回食中毒を出した店に行かないでしょう。この社長は法律違反による罰則を受けるまでもなく、社会的に罰を受ける。経営的に致命的なダメージを受けるという形で。
「法律で禁止されていないのが悪い!」
ぶっちゃけた話、禁止されていようが規制されていまいが、こうして死者という被害者を出してしまった店の末路としてはあまり違いはありませんよね。どちらにしてももう誰も店には行かない。あの『がっかりおせち』*1の時のように。


なぜ「法律で禁止されていないのが悪い!」が見苦しいのか?
致命的なのは、そもそも法律で決まっていようが決まっていまいが「やったことに対する影響はどちらにしても大差がない」ということに、悲しいまでにこの社長が気付いていないからなんですよね。あるいはそれを見ないフリをしている。
「法律違反になるんだったらやらなかったはずだ!」だなんて、起こりうる危機に対する想像力の欠如、を自ら証明しているに過ぎない。