不敬罪と自由

つまりこれって「差別対自由」な問題じゃなくて「不敬対自由」なお話なのかなと。


イスラム差別発言は表現の自由か | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
一部知ってる人なら知っているオランダで有名なあの人。また判決が出ちゃったらしいです。この人も政権に近すぎ遠すぎずでいいポジションですよね。

 イスラム教の聖典コーランを「ファシズム的」と呼び、アドルフ・ヒトラーの著作『我が闘争』になぞらえたことで、オランダの極右政党・自由党党首ヘールト・ウィルダースは、数限りない殺人予告を受けてきた。だがウィルダースにとってイスラム教を非難することは表現の自由であり、自分自身の権利の行使に過ぎない。そしてその訴えがついに認められた。オランダ・アムステルダム地裁が23日、彼の発言はイスラム教徒に対する憎悪を煽ってはいないという判決を下したのだ。

イスラム差別発言は表現の自由か | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

まぁなんというかヨーロッパさんらしい判決だなぁと。だからこそアメリカじゃこのニューズウィークのような「差別に寛容な判決で、第3の勢力を率いる極右政党のイスラム差別や移民排斥に拍車がかかりかねない」な論調になってしまうんでしょうけど。
ちなみに彼の数々の行動に関しては以下。
オランダの右翼議員、コーラン禁止呼びかけ 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News
反イスラム映画「フィトナ」、EUや国連などが一斉批判 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
オランダ極右議員の反イスラム発言「違法ではない」 裁判所 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
オランダでもブルカ禁止の動き、政策合意に極右政党の要求反映 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
めんどくさい――じゃなかった「熱い」人ではありますよね。ちなみに上記AFPの記事にもあるように以前も似たような「違法ではない」判決は既に出ているので、今回も同じ判決が出るのもある意味で既定路線でもあるわけで。ついでに言うと、こうした事態があっても尚、彼は選挙でそれなりに勝ち続けている。
つまるところ『全体主義憎し』が根底にあるヨーロッパさんちとしては、実際彼を否定するわけにはいかないんですよね。
だって例えば(現在でも世界のあちらこちらに存在する)独裁者を批判して逮捕されるような社会のことを非難する一方で、しかし特定の宗教へそのあり方を批判することさえ認められないとするならば、一体両者の一貫性をどう保てばいいのだろうか? 本質的にはそれはどちらも『反全体主義』において同等なのではないだろうか、と。故にかつてはどこの国でも見られた『不敬罪』はだんだんと消え去っていったわけで。不敬というだけで犯罪になるのはおかしいのではないかと考えた人びと。それはやはり思想・良心の自由や表現の自由を制約してしまうから。
それとも、『宗教』はいつまでも例外として特別に許されるべきなのだろうか?


さて置き、おそらくアメリカでは全く逆の判決が出ると思うんですよね。それは『宗教』ひいては『神』の意味づけが根本的に異なっている故に。
アメリカが宗教国家とされているのは(逆にヨーロッパが無宗教国家とされているのは)、別にキリスト教徒が多いからとかそういう理由じゃないんです。アメリカ大統領が就任宣誓の時に、神に祈るのは伊達ではない。ついでに『ゴッドブレスアメリカ』だって彼らは冗談や酔狂でやっているわけではない。あれは別にキリスト教という「狭義の神」に祈ってるわけではなくて、もっと概念上の広義の象徴である『神』に述べているんです。
それこそが彼らの国家の統一性の根幹を成すものである、と。*1
サミュエル・P・ハンティントンさんの『分断されるアメリカ』の中で「イスラム教徒な大統領より無宗教な大統領が出てくることはもっとありそうにない」なんて言われていたのは、つまりそういうことなわけであります。国家は(広義の)神の下にあり、それ故にアメリカはアメリカであるのだと。*2
その是非はともかく、そんなアメリカさんが上述したようなヨーロッパ型の考え方ができるかというと、まぁ無理ですよね。

*1:もちろん多くの部分で主流であるプロテスタント的な精神と重なる部分はあるんだけれども、しかしそれが全てでは決してない

*2:と、以下この辺の議論を始めるとヨーロッパ諸国と多民族アメリカという国の統一性を担保するものの違いとか、延々続いてしまうので割愛