「せいせんろん!」と「せいめいろん!」

悪魔合体してしまった人。これら一つ一つのポジションはそれなりに理解できるお話であるとしても、何故両者を連結し悪魔合体しちゃったのでしょうか。端から見ている感じとしては、合体レシピをミスって見事に外道スライムできちゃった感じ、に近い。


『どんな大災害が起こったとしても自衛隊は動かすべきではない』北守(hokusyu82)氏が語る、「緊急事態」 への懐疑 - Togetter
わーたのしそー。案の定コメント欄がものすごいことになっていてtogetterの日常風景らしくてなんというか皆さまおつかれさまです。
ともあれ、まぁおそらくこの方の論旨としては二つあって、「最高度緊急事態という概念は認められない」と「軍隊は災害救助隊に改名すべき」という辺りになるんでしょうか。毎度の事ながら、もしここでズレていたら降参するしかありません。


ということで前者である所謂『最高度緊急事態』という概念の是非というのは正義や正戦論における伝統的なテーマであるわけです。(ナチスなどを念頭に置いた上で)緊急事態においては人間の道徳を無視することが許されるだろうか? 例えば、何らかの戦果を得るために民間人を虐殺する事とか、あるいは重大テロを防ぐために情報を得るために拷問する事は許されるかとか。
それは「功利主義的なリアリストたち」と「絶対道徳主義=絶対平和主義者たち」をそれぞれ極北に置いたそれはまぁめんどくさいお話です。その意味ではこの方の「緊急事態という概念を一切認めない」というのは実際そこまで過激なポジションというわけでもないのです。全ての軍隊が潜在的に持つリアリズムと『功利主義の恐ろしいまでの柔軟性』というのはやっぱり何らかの方法で抑止をしなければ、最終的には50人を救うために無辜の49人をあっさり殺してしまう所にまで行き着いてしまうから。
個人的にはそうした道徳の絶対性からもう一歩だけ踏み込んだ「ギリギリまで回避する努力せよ」というウォルツァー先生やロールズ先生が好きなんですけども、やっぱりそうした意見さえもまぁ各所からボコボコに批判されてもいるわけで。
しかしそうした正戦論の議論は、やはり戦場というある種の究極状態だからこそ(人間が人間として根源的持つだろう)道徳的ルールをそれでも死守する事についての最終判断が『究極の問い』として問われるのです。まさに「天が落ちてきたとき」というような『緊急事態』に直面したとき、そこに是非はあるのか? と。
――で、まぁその一方でふつう災害救助出動というのはそこまで軍隊に重大な選択を迫ること事態はおそらくほとんどありませんよね。トリアージの問題などありますけども、しかしそれにしてもそうしたリアリズムが『暴走』する余地なんかはほぼないわけで。
なので「緊急事態への懐疑」というのは当然議論としてあるべきだとは思いますけど、しかしそれを災害救助にまで射程を延ばしてしまうのは少し筋がよろしくないかなぁと思う次第であります。ていうか別にその「緊急事態への懐疑」だけでも主張は十分なんだし一体なんでそこまで行っちゃったんだ感。



ちなみに今回のもう一つのお話である「『軍隊』ではなく『災害救助隊』にするべきだ!」的な主張もやっぱり結構昔からあって、つまり「(物事を変えようとするならば)先ず名を正すべきだ」という孔子先生の正名論的なお話に元ネタがあるのでしょう。
まさに「これは軍隊ではなく警察だ」とか「軍事行動ではなく治安維持活動だ」とか、右にしろ左にしろどちらからもちょくちょく持ち出される話題ではあるんですよね。実際国連なんかはそうしたことが大好きな人たちで、今でこそ身も蓋もなく『朝鮮戦争』なんて読んでいますけど、しかし当時はそれを「警察活動である」なんて言い張っていたりしたのでした。現実もそうなればよかったのにね。
同様にそれは日本でもそうした考え方は結構主流であって、『自衛隊』という名称そのものにこだわる人は――名前がどうであろうと中身は同じじゃないかなんて風に言う人たちが居る一方で――やっぱり結構いらっしゃるのでした。
名は体を表す。まぁそれが本質的にどうなのかはともかくとしても、しかし建前論としてはそれなりによく見られる光景でありますよね。物語的には大抵アイロニーに満ちたやり方で用いられていますけど。
ただやっぱり根源的にこの国家における軍隊という分野に関しては、『政治共同体における独占された暴力装置』という身も蓋もない役割をどうにかしない限り、幾ら名前を改めてみてその性質は変えようがないのではないかと思う次第であります。
しかしむしろ歴史的にはそんな正名論的な思考の結果、『暴力装置』がより中和的な名称として自衛隊や防衛軍などに変化したとも言えるので、将来もしかしたら軍を災害救助隊なんて風に呼称する日も来るかもしれません。来ないかもしれません。