かくして政治は踊り、されど進まず

バカじゃないのよ、愚かでもないのよ、ただちょっと「現実とフィクション」の区別がついてないだけ


「ここ数年で一番民主主義が死んでる」 - maukitiの日記
毎年のように「ついに民主主義は死んだ!」と叫ぶ人々。まぁやっぱり童話の教えてくれるオオカミ少年にしか見えないと言ってしまうと限りなくその通りではあるんですが、でもそれだけじゃ寂しいので以下適当なお話。


個人的にはこうしたの言説って、それこそ元ネタのボジョレー・ヌーボーの歴代評価なんかがそうであるように、しかしそうしなければ人目を引くことができない、という悲しいお話でもあるのだろうなぁと。
一度上げられたハードルが、次からの最低ラインになってしまう構図。一度そのワインの出来を誉めてしまったら、翌年から去年よりも不出来だなんて簡単に口にすることがでいなくなってしまった。一度民主主義が死んだことにしてしまったら、次からその瑕疵が明らかになる度に民主主義は死んでくれないと困ってしまうことになった。
……まぁやっぱりバカみたいだと言ってしまえばその通りなんですけど。
なのでこうして半ば自身が関知しない所で最低限のハードルが予め設定されてしまっていることを考えると、現在進行形で「強い言葉」を発する人たちだけを殊更に責めるのも、あんまりフェアではないとも思うんですよね。そもそも、そこに選択の余地などないんですよ。彼らは舞台の演出に支配された「善意の」演者に過ぎない。もうそれはただただ既定のシナリオに、もっと言えば――まさにワインの歴代評価がそうであるように――いつものテンプレに従っているだけでしかない。彼らはまさに、20時45分過ぎに印籠が出てくるドラマのように、ひたすらそのおなじみの展開を繰り返してるだけ。そしてそのお馴染みの展開こそが、偉大なるマンネリ、でもある。


かくしてその毎年のように繰り返されるそのドラマは、確かに一度目は真に悲劇であったのかもしれないけれど、しかし二度目以降は――本人たちが大まじめであればあるほど――とってもシュールで喜劇な様相を呈してくる。それは新ワインのお披露目を極限までに商業主義で先鋭化させた帰結にある悲劇と喜劇であるし、そして政治をエンターテインメントとしてしまったことの帰結にある悲劇と喜劇でもある。
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最後から二番目の真実 - maukitiの日記
多くの人々に「ウケる」物語がそうであるように、現実の政治までにも劇的な展開を求めようとしてしまう私たちと、そしてそれを自身の利益の為に煽ろうとする人々。まぁそういうショーバイをしようとしているのだからそんなものですよね。マスコミの使命なんて言いつつ、結局彼らだった私たちと同じノルマにあえぐサラリーマンでしかない。人目を引かなければ生き残れない。
かくしてその物語の演者たちは単純に自発的というよりもむしろ状況によって、期待されるシナリオに従って強い言葉を使うのです。




そこでは本来の現実的な政治で目指すべき最も副作用の少ない「緩やかな変化」などは期待されない。だってそれではまったく盛り上がらないから。視聴率を稼げないから。故に用いられるのは解りやすいオールオアナッシングな言葉でしかない。
漸進的に良くしていくのではなく、社会改良は常に革命的変化によって実現されるべきなのだ、なんて。21世紀になってもまだ続く、カビの生えたような古くさい革命的敗北主義な風景。逆説的に言えば、まったく同じように地獄への道だって緩やかな変化の方がずっと恐ろしいはずなのに、しかしバカみたいに劇的な変化ばかりを叫ぶ人々。

それでも、確かに選挙をエンターテインメントとして盛り上げることで人びとの関心を集めることができたと擁護することもできなくはないかもしれません。

――しかし、結局のところ、現状のマスコミの皆さんのやっていることって、政治や選挙を使って、視聴者に一つのストレス解消を提供している過ぎないんですよね。週刊誌やテレビのワイドショーでやるように、スポーツのイベントや、芸能、事件や事故を面白おかしく報道しているのとまったく変わらない。

どこまでいってもそれはただその場で消費されていく刹那的なイベントとしてしか扱われないために、結果として長期的問題として『政治』が真剣に議論されることもない。かくしてエンターテインメントとしての政治は賞味期限が切れた時、熱狂前よりも更に冷えきってしまうのです。そのブームが過ぎ去ったあと、まるで未だに古い流行にしがみついているような印象さえ与えてしまう。

選挙をエンターテインメントとして消費することの末路 - maukitiの日記

でもやっぱりそれって単純に発信する側だけの問題なのかというとやっぱりそうではないんですよね。少なくない私たちも実際の所そうした物語を現実政治にまで内心求めているのは否定できない事実であるのでしょう。その上で、彼らは私たちにウケると思って敢えてその手段を多用している面も確実にある。
ただの変化じゃつまらない。劇的な革命だいすき。だってそっちの方が盛り上がるから。
まぁフィクションにそれを求めるのは結構なんですけども、しかし現実にまでそれを求めてしまう困った悪癖。政治が勝ったの負けたのといった、エンターテインメントの一種としてしか見られなくなってしまった私たちが必然のごとく陥った、そんな悪癖。
僕は日本の一部マスコミはこの一点において――その癖「健全な民主主義には自分たちが欠かせない」とドヤ顔をする彼らを――心底クソだと思っておりますけども、でもまぁやっぱりそれも視聴者との共謀の帰結でもあるのでしょう。こうしたマスコミの皆さんの都合があっても尚、為政者の義務としてきちんと現実を語るべきだと言うことも、まぁ確かに正論ではありますけれども、しかしやっぱりこれってかなりの面まで3者の共謀した構図だよなぁと思ってしまいます。いやぁどうしようもないですよね。
ということで、そうした「民主主義は死んだ!」的な言葉を使う人たちは、それこそ毎年のように「最高の出来だ!」ワインの出来を誉めようとする人たちとまったく同じ目線で生暖かく見守ればいいのではないでしょうか。*1
――ああ、彼らはポジショントークとしてそう言わざるをえないのだろうなぁ、なんて。
dragoner.ねっと: オオカミ少年は死なず ~民主主義は何回死んだか~
元ネタにさせて頂いたdragonerさんの記事にもあるように、結果としてその行為そのものが民主主義を死に至らせているような気はどうしてもしてしまいますけど。



舞台で踊る役者たち。故に彼らは演出に従いなんども劇的に叫ぶ。「民主主義は死んだ!」
この物語は悲劇なのか喜劇なのか、それが問題だ。

*1:昨日に日記を書くにあたって久々にそのコピペについてちょっと調べたら、なんか最近では(2012年がそうであるように)不出来な場合はそれに言及するようになっていたりする、らしい。偉いですね。