私たちは仕事の成功=人生の成功であると、信じている

あるいはそう思わなければやってられない。



働けば働くほど満足感を得る人が多くなった現代社会の「労働」と「余暇」とは - GIGAZINE
まぁ以前から指摘されているお話ではありますよね。お仕事大好きな私たち。それは労働教*1を信仰する私たち日本人であるし、あるいはプロテスタントな倫理基礎でもあったりする。我々はみなワーカーホリックなのか?

それから約200年を経て21世紀に突入した現在、生産力の向上などにより社会全体の労働時間は減少しているにもかかわらず、富裕層の労働時間は逆に増加に転じています。1965年時点のデータでは、大学を卒業して多くの給料を得ていた人は、高卒の労働者よりも多くの余暇の時間を得ていた一方で、2005年時点における同様のデータではそれが逆転し、大卒者が過ごす余暇時間は高卒者よりも平均して8時間少ないという結果が明らかになっています。

また、アメリカ合衆国労働省が2013年にまとめた調査結果では、大卒者の1日の労働時間は平均して高卒者よりも2時間多いという調査結果も明らかにされており、もはや「富裕層=余暇の時間を楽しむ層」という構図ではなくなってきていることが浮き彫りにされています。

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もちろん「仕事が無くて」苦しむ下層な人たちもいる一方で、じゃあ逆に「仕事がある」人たちにとってそれが完全に未来永劫安心できる状況なのかというと、やっぱりそうではないんですよね。彼らは彼らでその平凡なほとんどの人にとって、その仕事を失うこと、あるいは出世コースから外れてしまうことが、ぶっちゃけてしまえば『紙一重』だということをよく解っている。
私たちが望んだ血筋や家柄で支配されない、能力主義な資本主義な世界。


そんな誰もが苦しい競争の中で、じゃあ何のために働くか、ということに多かれ少なかれ不安を覚えるのは当然だと思うんです。そこで私たちが何に救いを見出すのかと言えば、悲しいことに仕事そのものに行き着くことになる。健気な精神防衛反応ということもできるでしょうけど、逆もまた言えるのでしょう。
仕事は人生の喜びそのものであり、そしてまた、仕事の成功は(少なくとも五分五分以上の確率で)豊かな人生を送ることが出来ると保証してくれる。
――そして、おそらく、その確信は正しい。
私たちの生きるこの現代社会というのは、そうした『成功』がもたらす報酬という面で見れば、とても寛大な社会に生きているんですよ。それは素晴らしき経済活動の賜物でもある。カネさえあれば大抵のことはできる。それこそかつての王侯貴族なんかよりも、ずっと豊かな生活を送ることができる。
カネさえあれば。

この風潮は実際の調査結果とも呼応するものとなっています。人びとが「最も満足感が低い」と感じている仕事は、マニュアル化されてスキルを必要とされないものであるという結果が出ており、仕事における満足度は職業の名声レベルに応じて増減するということがわかっています。カリフォルニア大学バークレー校のアーリー・ラッセル・ホックシールド社会学名誉教授による調査では、労働の知的レベルが向上するにつれて人びとは家で過ごす時間よりも仕事の時間を楽しむ傾向にあるということが示されています。

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かくして、まるでパブロフの犬のように、私たちは仕事の成功=人生の成功であると、信じるようになっているんじゃないかと。必ずしもそれは同一視できるものではないものの、やっぱりそれはそこまで分の悪い賭けでもない。仕事が上手くいっていると言うことは、つまりそのまま人生が上手く行っているということでもある。
そのイコールな確信がもたらす条件反射。仕事とは、つまり人生の喜びである、なんて。


みなさんはいかがお考えでしょうか?