冷静と情熱の間とかだいたいそのへん

数が多いと賢者モードになってしまう私たち。


「ある少女の命」は助けても「大勢の命」からは目をそらしてしまう理由とは - GIGAZINE
へー面白いお話。まぁこの辺は『統計上の死』という言葉なんかで昔から言われているお話ではありますよね。私たちはそんな名前も知らない大多数の悲劇よりも、少数の『特定された命』の方をより救いたいと願ってしまう。それはまぁ背景事情などの詳細といったストーリーに共感しやすいから、とか言われていたりする。
それを道徳的に非難することは可能でしょう。リソースに限界を持つ故に私たちだからこそ「恣意的に」救う命を選ぶ。縁故を愛する人類学的な人間の本質といってもいいかもしれない。

スロヴィック教授によると、少女に対して助けの手をさしのべようと思うのは、その行動をとることによって自分がよい気分になり、温かい気持ちになるからだとのこと。そのため、統計データの規模が大きくなると、飢えに苦しんでいる人々の存在が非常に大きなものであることを感じ、「自分にはどうすることもできない」と考えるようになると論説しています。

興味深いのは、「ネガティブな感情がポジティブな感情を打ち消すこと」であると研究チームは指摘します。仮に人間の頭脳がコンピューターのようなものであった場合、「少女を助けたい」という気持ちと「自分には助けられない」という相反する気持ちはお互いに打ち消し合うことなく存在し、無力感に襲われながらも、一方では少女を助けるための寄付は行えるはず。しかし、人間の脳では無意識下でさまざまな感情が統合されてしまい、少女を助けたいという温かい感情がネガティブな感情によって打ち消されてしまうとしています。

「ある少女の命」は助けても「大勢の命」からは目をそらしてしまう理由とは - GIGAZINE

なので、まぁこうした「ネガティブな感情がポジティブな感情を打ち消すこと」という仕組みはある種の「自己弁護」としても機能する、という意味でもあるのでしょう。あまりにも被害の規模が大きすぎる故に、自分が出来ることは何もない=何もできなくても仕方ない、という境地に至ってしまう。別に内心の自己弁護なんてどうだっていいのでしょうけど、素朴に善良な私たちはそのような正当化をせずにいられない。
それは概ね正しい現状認識ではありますが、その効率という事実によってこそ罪悪感を逃れ自身の精神の平穏を保つための手法として。


ただ救えないお話だなぁとも思うのはオチ部分で、

対象となる相手の規模によって人々の行動が大きく左右されるというある意味で衝撃の内容が明らかにされたわけですが、一方でこの結果からは今後のあり方を示唆する内容も見えてきます。世界の惨状の真実を伝えることは重要なことであるわけですが、あまりに大きく事象を伝えることはかえって逆効果になると言えます。話の規模が大きくなるほど、人々の関心は無力感によって打ち消されてしまうことがわかったので、伝え方に対する配慮が内容と同じぐらい重要な要素となりそうです。

「ある少女の命」は助けても「大勢の命」からは目をそらしてしまう理由とは - GIGAZINE

(人間の本質は変えられないから)宣伝広告のやり方こそ重要なのかもしれない、と言われると正論ではあるのでしょうけど、まぁマスマーケティング戦略こそが重要視されるとっても現代的で現実的なオチで善行もクソもなくなってしまう感。黒いモノを白にしよう、なんて。それはそれで地味におっそろしいお話ですよね。