国家主権に挑む人権擁護、という戦いの行く末

人権擁護を名分にした人道的介入時代の終わりと、内政不干渉の時代の到来について。


21世紀は人身売買の時代 - maukitiの日記
先日の日記のコメント欄で少し反応があったので適当なお話。人権擁護という国家主権介入の未来


アメリカ一極時代が終わりつつある現在、国際社会における「人権擁護」問題の扱いは一体どうなっていくのか?
――と考えると、冷戦時代末期がそうであったようにむしろその主張自体は徐々に強まっていくのではないかと思います。それは私たちの意識が進歩したという意味でもあるし、同時にまたグローバルな世界の実現によってそうした『隙間』を狙うことはより容易になってしまったから。
しかし、実際の行動の中身としては、後退するだろうなぁと。だって冷戦後のアメリカ一極時代にあったような無邪気に国家主権へ介入をすることは「再び」難しくなっていくだろうから。




もともと1970年代末からベルリンの壁崩壊までの冷戦末期、西側陣営の東側陣営に対する最大の大義名分の一つがまさに人権擁護であったわけですよ。1970年代半ばからソルジェニーツィンの『収容所群島』などで次々に明らかになったソ連圏の深刻な人権侵害。ヘルシンキ宣言を楯にした「人権と諸自由の尊重」って身も蓋もなく言えばそんなソ連に対する優位性の確保としての方便でしかなかった。実際その中身と言えば、ソ連を非難する一方でクメールルージュやアフガニスタンやアフリカの独裁者など、反ソであれば例え「人権何それおいしいの」政権ですら西側は擁護してきたわけです。
――しかし彼らはそんな大義名分こそを、自らの正当性・優位性の根拠としてきた。その意味で言えば、先日の日記でも書いた「他国の人権的後進性」を敢えて非難することの意味は、こうした時代から続く国際関係でマウントする為の伝統的手法でもあるんですよね。


「あいつらは人権意識が薄いクズであり――それに比べて俺たちはなんてすばらしい――故に正義は我にある」なんて。今でも稀によく見る愉快な光景。実際それには現世的利益もあって、例えば欧米諸国からの投資を呼ぶという点では、自らの国内におけるフェアネスを喧伝することにはやっぱり意味があったりするわけで。


それを実体験として知っているロシアや中国は、今後ますますもう一つの現代世界における大正義である『内政不干渉』という原則を強めていくでしょう。まぁそんな彼らの大義名分も、自国影響力を周辺国に広げたいという意味で、やっぱり方便でしかないんですけど。
「人権擁護」対「内政不干渉」
この現代世界における不毛すぎる千日手は、ところが東西対立の緩和以後、ただの方便でしかなかったモノが少しずつ(人道援助を大義名分にした)国家主権への介入原則として積み上げてきたのでした。
ただ、冷戦時代にはとりあえずの建前としてだけあればよかったそれは、実際に行おうとしてみるともう死屍累々の有様だったわけですよ。特に冷戦時代にはなかった内戦・紛争を取り巻く環境の変化、より小規模な武装勢力の乱立状態は最低限共有されていた戦争のルールさえも覆していた。『イスラム国』なんてその極北で、彼らはまさに最低限としてあった戦争のルールを敢えて無視することで知名度を上げまくった。
ソマリアユーゴスラビアといった致命的大失敗の代表例から、クルディスタンリベリアスーダンアフガニスタン等々。
湾岸戦争時のイラクなどもちろん成功例もあるものの、しかし多くの事例で、欧米諸国は国連経由の人権擁護を大義名分とした人道的介入の現実=実際に紛争を抑止する為の軍事介入との適切なバランス構築の困難さに直面した結果、人道的介入そのものについて徐々に立ち竦むことになるのです。かくして現在のシリアなんかでは、20万人以上が亡くなりその十数倍の数の人々が難民として深刻な人権危機に陥っているにも関わらず、平和と人権を愛しているはずの私たちは(解決策が見いだせない以上)正しく沈黙する。
こうした失敗は、更に悪いことに人道的介入事例の粗製乱造という歴史を生み、現代先進国に生きる少なくない人びとが薄々感じているように、その言葉自体に信頼性を失ってしまっているんですよね。もう彼らの口からその言葉を聞いた瞬間から半ば不信感が芽生えるようになってしまっている。
人道的介入(笑)
元々相手国への優位性を誇示する半ば方便でしかなかった普遍的『人権擁護』という大義名分は、冷戦の終結によって実際に行動する余地が大きく生まれ、しかし国連の機能不全や有権者の無関心等によって見事に失敗し、かくして現実に失望してしまった。
ただ停戦させ、ただ平和維持をして、ただ援助すれば人権は守られみんな大ハッピーなんて簡単な事態はほとんどなかった。
人道的援助と紛争終結は、しばしば、トレードオフだった。



ところがぎっちょん、幸か不幸か唯一超大国アメリカ一極時代は終わりつつあり、かつての冷戦時代と少し似ているもののまた別の世界がやってきつつある。おそらく、その世界では(冷戦時代、あるいはそれ以前の時代にあったように)少なくとも今よりもずっと国際社会が協調した行動する余地・自由が小さくなるでしょう。最早国連も無邪気な人道的介入を容認するようなことはありそうにない。
――まぁ仕方ないよね。だって内政不干渉を重視するロシアや中国が拒否権を行使するのだから。
しかしやはりその制約はある種の福音でもあります。だって実際に行動する責任を回避することができるから。それは成功することが不可能になると同時に、無様な失敗すらも回避できるという意味でもある。
自由気ままな超大国の居ない多極化時代となるからこそ、誰もが行動に制限が生まれる。
その意味で、私たちは再び人権擁護をただの方便として、ただ相手国への優位性を示す大義名分としてだけ扱える時代がやってきつつある、のではないかと思います。もしかしたら『蜂の寓話』のように、あの無残なイラク戦争すらも例え「人権擁護」という見え見えな方便でも行動できて良かったなんて懐かしむ時代がやってくるかもしれない。
まぁそれが幸福なのか、不幸なのかは解りませんけど。
人権擁護を名分にした人道的介入時代の終わりと、内政不干渉の時代の到来について。


みなさんはいかがお考えでしょうか?