民主主義における「デモ」の正当性は認めても、「選挙」の正当性は認めない人たち

それは別にどちらか一方だけが重要だというわけではないのにね。



安保法制、2万人が反対デモ 「私たちの独裁を打倒する記念日に」 | ハフポスト
ど、どくさい?

「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動」の主催。作家の落合恵子さんが「私は最後の戦中派です。2015年7月14日のこの日を、私たちの独裁を打倒する記念日にしましょう」と壇上から訴え、「戦争法案、絶対反対」などとシュプレヒコールをあげた。会場に入りきれなかった人々を含め、参加者らは国会前までデモ行進した。

安保法制、2万人が反対デモ 「私たちの独裁を打倒する記念日に」 | ハフポスト

まぁ、なんというか、自分たちの正義は語っても、相手側の正当性を認めない人たちだなぁと。ロナルド・ドーア先生が労働争議の泥沼っぷりで説明しているように、その相手側の依って立つ正当性をまるで認めようとしない論理を持ち出すと、ただ相手の「存在そのもの」を否定したいという地平にしかたどり着かないんですよね。原理的な無政府主義者なのかな?
もちろんデモをやる事自体は間違っていないし民主主義におけるその重要性は否定しないものの、だからといって安倍政権が持つ選挙結果という正当性を否定しようとするのはどうなのかと。
7月12日の天声人語で朝日さんも似たようなこと仰っていてほんともう正気かと思うんですが、そこで安易に優越を認めたらそれこそ民主主義の地獄ですよ。まさに戦前のドイツや日本にあったような『熱狂』の本質はそういうものであるし、実際少し前にもエジプト辺りで似たようなこと起きてたのにね。
別に安倍政権が何か違法なクーデターで政権を握ったわけでは絶対にないわけで。そんな相手が持つ権力の正当性をまったく認めようとしないのは、正直バカにされても仕方ないのではないかと個人的には思います。


もし本当に安倍さんがほんとうに独裁政治を行っているとすれば、それは権力監視の不備であり、日本の政治制度の不具合でしょう。
この辺のことを言い出すと、トクヴィル先生風に言えばまさに「独裁政治への道は、市民が社会問題に無関心なった時にこそ整えられる」のであって――それこそお隣の某共産党独裁と違って――こうして反対の声が公にあればあるほど、正しく『独裁』ではないことが証明されていることの証左でもあるので、実は政権側にとってもwin-winなのだろうなぁと。
反対の声が正しくあげられるという時点で、皮肉にも権力は正しく監視され市民の政治的権利と自由が保障されていることが証明される、といういつものパターン。
――かくして喧々諤々ながらも議論はなされた、なんて。
NHK世論調査 各党の支持率 NHKニュース
しかしこの騒動の影響力はさて置くとして、前回の自民党政権崩壊前夜と違って、この期に及んでも尚野党含めほとんど誰も「選挙をやれ!」「政権交代!」「民意を問え!」というのが大きな声にならない辺りお察しだよねぇと。まぁ正しい現実的判断ではあるんですが。
独裁云々はともかくとして、しかし上記構図から有権者が足元を見られている、というのは多分その通りなのでしょうね。そしてそれが自民党の慢心を招いているというのも正しい指摘だろうなぁと。


いつか再び自民党へお灸を据えられるのは間違いない。
しかし、悲しいことに、今ではない。


市民が政治的関心を失っていないなんて、日本の政治は素晴らしいね!(投票率は見ないフリしつつ)