サンマの不幸が最高のスパイスに

目の前の料理がより美味しくより魅力的に感じられてしまう意図せぬ報道のチカラ。


サンマとれない… 台湾・中国で人気、公海で「先取り」:朝日新聞デジタル
ということで、なんだか一部界隈では頭が右だの左だのと楽しげにやっている旬の味であるサンマでありますが、まぁやっぱり昨今の漁業問題の悲しきトレンドでもある「資源量減少」な構図にサンマもあるわけですよね。
ところがウナギなんかでも典型でしたけど「資源量がヤバイ」と――もちろんその善意について疑うべくもない――訴えることが、必ずしも危機を憂いた人の目論んだ方向へと動かすインセンティブにはならないのが悲しいお話なんですよね。
ミクロな人びとの振る舞いを変えるのは、特に伝統的価値観が絡むと更に、難しい。
私たちは長期的にはデメリットしかない行為だからといって、短期的利益を得ることと引き換えにすることは少なくないわけですよ。煙草も吸うし、甘いものは別腹だし、環境問題(ついでにお腹のお肉なんかも)を憂いながら自家用車に乗ることはやめはしない。


大衆魚であったサンマが徐々に高くなっているのは間違いなく、そうした人びとの思いは実際に上記ニュースなんかでも裏付けされている。となると、もちろん食べるのを遠慮しようという人たちが居る一方で、少なくない人たちが考えるのはまぁ合理的に「ならば今のうちに食べよう」という発想でもあるわけですよ。元々高級魚ではなかったそれが、そうした報道が一般化することで、特殊な希少価値が付与されることで予期せぬ形で価値が増してしまっているサンマ。
どうせ将来「食べられなくなる」ことで困るのは未来人たちであって今生きている自分ではない、という利己的な振る舞いは、しかしミクロな視点で言えば正しいと言わざるを得ない。


今年も高く、来年はもっと高くなるかもしれない。ついでに台湾や中国もそのおいしさに気づいたらしい。だったら、今年のうちに食べるべきじゃないか、なんて。
自分さえ、今さえ良ければいい、というのは私たちが日々の生活を送る上でサンマに限らず他の何かでも実践しているように、確かにある種の真理でもあるわけですよ。マクロでは不合理なそれが、ミクロでは合理的となってしまう。


かくして現状のウナギなんかでも毎年恒例の風景として繰り返されているように、私たちはそうした資源量減少な報道を見てこそ「もう来年はウナギ(高くて)食べられないかもなぁ」とより食材に感謝しながら旬の恵みを味わうことになる。
――資源量減少という報道があると、なんだかより一層魅力的で美味しく感じてしまう人間のサガ。
おそらく今後サンマ不漁なニュースがより報道される資源量となれば、ますますそうしたインセンティブは大きくなってしまうのでしょう。需要と希少価値こそが世の中の価値を決めるという、この物理宇宙を支配する大原則。
それってつまり、ザ・共有地の悲劇な世界、なんですけど。


資源量減少報道による、意図せざる結果について。だからといって乱獲による減少が紛れもなく事実でもある以上、その報道を止めるわけにも無論いかない。危機的状況を訴えるはずのニュースが、その状況を加速させ固定化させる。ウナギと同様に、サンマも同じ道を辿ってしまうのか。
いやぁ意図せぬ結果ってコワイよね。


がんばれ人類。