「残虐さ」と「寛容さ」のチキンレースの果てに待つもの

果たしてテロリストが『共感』を失うのが先か、それとも欧州市民たちが『寛容さ』を失うのが先か。


元人質が語る「ISが空爆より怖がるもの」(ブレイディみかこ) - 個人 - Yahoo!ニュース
概ね理解できるお話ではあるかなぁと。かの『イスラム国』な人たちが本当に欲しいモノ、あるいは恐れるモノ。以前もクソコラな日記*1書きましたしねぇ。

彼らの世界観の中核を成すものは、ムスリムとその他のコミュニティーは共存できないというものだ。そして彼らは毎日アンテナを張り巡らせて、その説を裏付けする証拠を探している。だから、ドイツの人々が移民を歓迎している写真は彼らを大いに悩ませた。連帯、寛容、・・・・それは彼らが見たいものではない。

元人質が語る「ISが空爆より怖がるもの」(ブレイディみかこ) - 個人 - Yahoo!ニュース

しかしこの「ISが空爆よりも恐れるもの」というお話って、ほとんどそのまま今回のパリで見せられたような重要人物や施設ではない、ひたすら防御の難しいソフトターゲット=ただ日常生活を送る市民たちを殺戮する、ことの合理性をそのまま証明してしまうんですよね。もし「民は城、民は石垣、民は堀、情けは味方、仇は敵なり」ならばテロリストが狙うなら……?
――そりゃ「市民そのもの」ではないかなぁと。
だって、まさにそれこそが人びとから寛容性・連帯感を奪わせるのに最も効果的なターゲットじゃないですか。人びとを殺せば殺すほど、彼らの連帯と寛容さは失われ、結果としてそうした映像を見ずに済むようになる。「私はシャルリー」のように、(もちろんそうした意思を表明することは素晴らしいとは思いますが)パリ攻撃の後に見せた素晴らしき善意である連帯や寛容さって、二重の意味でソフトターゲットを狙われる可能性を上げているんですよね。
もしシャルリーがパリ市民ならお前ら自身を殺す。確かに理路としては正しいでしょう。
かくして欧州市民の日常を襲うことは、攻撃の難易度の低さと効果の高さという意味で、とても都合のいい標的となる。


ただ、だからといってこのソフトターゲットな手法がそのまま単純に『イスラム国』のようなテロリストにとって利だけがあるかというと単純にそういうわけでもないんですよね。


つまり、彼らテロリストの活動にとって、物的支援という意味でもリクルートという意味でも決定的に重要なのは「同じ(宗教・民族・文化やイデオロギー)背景を持ちながら、密かにテロに共感、あるいは犠牲者に同情しない人びと」の支持であるわけですよ。
今欧州では再びホームグロウンなテロが恐れられていますけども、こうした表面化した少数のテロリストが証明するのは、つまるところ潜在的にはそれ以上の大多数の暗黙の共感者たちという『母数』の存在であります。
Most dislike ISIS in Muslim countries
むしろ抜本的なテロ対策ほんとうに重要なのは、その「下地」だとすら言える。こうした暗黙の支持者たちの存在が大きければ大きいほど、テロリストへの支援は上記リクルートという意味でも容易になっていく。
だからこそ一般にテロ攻撃を抑止する為にはただ対処療法ではなく、根本的にはそうした社会内部にある支持層の縮小こそが重要である、と言われているのです。社会に生まれる短慮な排外機運は結果としてテロリストを利する。何故なら犠牲者への同情が消え、一方で彼らへの共感が増えるから。
潜伏先急襲:ブリュッセル貧困地区に武器闇市場、事件温床 - 毎日新聞
以前日記でも書いたように、事実上地元社会から見て見ぬフリ=見捨てられている移民二世をはじめとするデラシネな若者たちを「社会として」救わねばそうした支持層をなくせない。まぁ口で言うのは簡単ですけども、やっぱり簡単じゃありませんよね。



しかしただ悲観材料しかないというわけでもなく、今回のパリ攻撃のような無差別攻撃は、もちろん標的である欧州市民たちを恐れさせその寛容さを摩耗させる一方で、上記「犠牲者に同情しない」というより広い意味での支持層をも離反させることになる。
まぁ考えてみれば当たり前ですよね。横暴な軍や警察、容赦のない政府を攻撃するならばともかく、ただの市民たちを無差別攻撃すれば犠牲者たちへ同情することのハードルはずっと低くなる。そして犠牲者に同情するということは、最も広義の意味でのテロリスト支持層を縮小させる。
大義」を掲げるテロリストがしばしば重要人物・重要施設に標的を限定するのはまぁそうした合理的な理由(=被害者に同情させない)があり、狙いやすいはずのソフトターゲットが標的にされにくいのはそういう理由があるからなんですよね。
犠牲者への同情を引きやすいあまりにも残虐な方法は、自滅に近い形でテロリスト自身の首を絞めることになる。


他にも救いがあるとすれば、まさにシリアにおける彼らの根拠地ラッカであるように、しばしば民族的テロリズムが持つパラドックス=彼らは外部に向けるはずの暴力行為を、集団内における不滅の権威を確立する為にそれと同じだけの残虐さを内部に向けても発揮する、という点があるわけですよ
――それこそ私たち日本人にとっては、オウム真理教が外部に向けての残虐さと同じくらいヒドイ内部に向けられた残虐さを知っているはずでしょう。
それは追いつめられつつあればあるほど、外部だけでなく内部での粛清も激しくなる。その意味で言えば、空爆もまったくの無駄というわけじゃない。それはただ直接にテロリストたちを殺しているからというだけじゃなくて、まさに彼らを追い詰めることによって内部への暴力行為を増加させ、間接的に内部統制を崩壊させるという点で。





ということで、最近しばしば指摘されているように、これって弱体化しつつある『イスラム国』にとってある種の掛けでもあるのです。欧州市民は更なる寛容さで、テロリストたちは更なる残虐さで、どちらも骨を切らせて肉を断とうとしている、まさに正しくチキンレース
果たして欧州市民の理性の限界が先か、それとも上記広義の意味での『イスラム国』の潜在的支持層の離反が先か。
結局のところ、どちらが優勢であるかについては、見る人の従来のポジションによって左右されるかなぁと思います。もちろんイスラムな人びとの善意や欧州市民の寛容さを強く信じる人たちは彼らが勝つことを信じているだろうし、逆に欧州市民が結局は口だけだと信じていたりあるいはイスラムの人たちの(故がないわけではない)欧米憎悪が尚も強いと信じていれば結局はテロリストの目論見が勝つように見えるかもしれない。


さて、「過激イスラムなテロリスト対寛容な欧州市民」のチキンレース、どちらが現在優勢で、最終的に勝利を収めるのはどちらになるのでしょうね。
みなさんはいかがお考えでしょうか?