「市販カレーに隠し味入れる」派から「ワクチン恐怖症」派までを繋ぐもの

病気に対する隠喩的意味の付与と、素朴な反知性主義と、主体性への欲求。


百日咳ワクチン(DPTワクチン)の歴史:その1 - かるがもブログ - 世田谷区千歳船橋の小児科:かるがもクリニック
うーん、まぁ、そうね。所謂『ワクチンルーレット』を回したくないという人たち。やっぱりその不安自体は理解できないモノではありませんよね。なので別に殊更に批判されるべき愚行ともあまり言えないのが地獄で悲しいお話なんですけど。

 DPTワクチンで2名の死亡事故が発生したとされています、しかしDPTワクチンが中止・接種率が低下してからは、感染者は1万人から3万人にも及び、死亡者数は20−113人とも言われています(典型的な百日咳以外は診断するのが難しく、資料により幅があります)。

 ワクチンで亡くなった2名と、ワクチンを中止することで亡くなった20−113名と、どちらが尊いか、そういった比較は出来ないとは思います。しかし、日本でアンチワクチンとも言える本では、DPTワクチンを中止してもジフテリアが増えなかったという話はあっても、百日咳は増えて多くの犠牲者が出たという話は一切出てきません。『病気で子どもが死ぬのは自然なことだから仕方がないが、予防接種による被害は人為的なことなのだから許されないという「価値観」』(「安全な食べもの」ってなんだろう? 放射線と食品のリスクを考える 畝山智香子)から来るものでしょうか?

百日咳ワクチン(DPTワクチン)の歴史:その1 - かるがもブログ - 世田谷区千歳船橋の小児科:かるがもクリニック

これも先日書いた、スーザン・ソンタグ大先生の『隠喩としての病』を読もう、で終わってしまうお話ではあるんですけど。別に健康被害に自然も人為もクソもないわけで。そんな風にただの病気に何らかの隠喩的意味を付与してしまうのは、適切な治療を受けることの心理的なハードルにしかならない、と。
ちなみに反ワクチンが所謂『反権力』な人たちと結びつきやすいのは、ワクチン推奨というのはしばしば政府による公的な(流行拡大を防ごうとする概ね善意の)後押しを受けるから、という理由もあったりするんですよね。ワクチンを接種するということは、推奨した政府機関の『価値観』を押し付けられることに等しい、とこちらも同様に隠喩的な論理を病気と結合してしまうから。




ともあれ、ただ実際上記で取り上げられている「百日咳とそのワクチン」ってワクチン不安騒動の世界的な典型例でもあるんですよね。日本だけでなくアメリカでもイギリスでも似たような事例はあって、その混乱っぷりはどこも似たり寄ったりなわけで。どこでも皆、多数の百日咳の苦しみを横目で見ながらも、しかし極少数のワクチン副作用の苦しみから目を離せない。
――そうした人たちの価値観としてあるのは「そんなどこの馬の骨が作ったようなクスリに命を預けたくない」という素朴な疑念でもあるんですよ。
ここまで進んだ現代社会なのに、いやだからこそ、彼らは見知らぬどっかの頭の良い人たちが作ったという『ワクチン』に不信を念を抱く。
つまるところ、知らない誰かの頭でっかちな知性ではなく、自分の経験や体感こそを信じようとする、正しい意味での反知性主義な人たち。うちでも何度か日記ネタ(正しい意味での)反知性主義の極北 - maukitiの日記にしたように、『愚者の知恵』というのは必ずしも常に間違っているわけでもない。だからこそこのお話ってめんどくさくなってしまうんですけども。


こうした「見知らぬ人の知性」に対する疑念って多かれ少なかれ誰でも持っているでしょう。ワクチン不信までには行かないにしても、例えば市販カレールーでの作り方や、あるいはファーストフードやコンビニ弁当なんかの安全性なんかのように。これらだって少なくとも現代企業においては、本当にコストを掛けて全力で商品開発しているわけで。少なくとも私たちが一般家庭でやるよりはずっと本気で気を配っているはずでしょう。
「カレーは市販ルーでそのまま作るのが、一番旨い」…という”不都合な真実”? - Togetter
ちなみに僕も市販カレーに色々隠し味仕込む派です。絶対うちのが美味しいわ。


このカレールーとワクチンの構図は概ね一緒なんですよね。僕のような仕込む派の多くが「何が美味しいかはSBやハウスの商品開発者が決めるんじゃなくてワイが決めるんや」と素朴に考えているように、ワクチン不信の人たちも「何が病気を治すかは医者や製薬会社が決めるんじゃなくてワイが決めるんや」と素朴に考えている。
自らが状況をコントロールしたい、という気持ち。車よりも飛行機を恐れるような、私たちによくある自己欺瞞の一つ。
行動経済学風に言えば、主体性への欲求。
どうでもいい事や他人事であれば冷静になれるものの、近親者の健康のような重大なテーマだからこそ私たちは事態をコントロールする為の主体性を確保しようと、他者の知性なんて信用できないと既存の経験・勘・伝統へ突っ走ってしまう。



ということでワクチン恐怖症を日記ネタにするならこの辺りかなぁと。「病気に対する隠喩的意味の付与」と、「素朴な反知性主義」と、「主体性への欲求」について。
いやぁにんげんってかなしいいきものだよね。