まだ人間じゃない

誰が誰にとって「人間」ではないのか。


<タリウム事件>謝罪の仕方がまだ分からない | 河北新報オンラインニュース
これまたすごいことが得意なフレンズが表に出てきちゃったなぁ。

 謝罪したい気持ちはどの被害者に対してもあるが、謝罪の仕方がまだ分からない。今、一番言いたいのは、こういう事件を二度と起こしたくない気持ちを持っていること。反省したいが、反省が何かがまだ分からない。どの事件も「やらなきゃ良かったな」という気持ちはある。なぜ女性を殺害しなければいけなかったのか、なぜタリウムを飲ませたのか、考えたことはあるが分からなかった。
 最初は時間がたてば反省できると思っていた。そうではなかった。誰かの協力を得たい。償いの意味は分かるが、償う方法は分からない。被害者や遺族には謝罪をしていない。被害者から賠償を求められており、できるだけ支払いたい。具体的に自分がどこに住み、何をしていくかは分からない。科学は勉強したい。事件を起こさなかったら研究者になりたかった。人を殺さない自分に変わりたい。二度と犯罪を起こしたくない。
 法廷で遺族や被害者の言葉を聞くのはつらかった。自分と被害者の感覚がずれている事実や被害者の苦痛を知り、ショックを受けた。精神鑑定をした医師が出廷し、多くの場面で「障害」と言われるのもつらかった。今は治療を受ける気持ちになっている。
 人を殺したくないと思う半面、人を殺したい気持ちも湧き上がる。コントロールできず困っている。入院中、医師から世間の常識や感覚とのズレを指摘された。「人を殺したい」という欲求は他人にもあると思っていた。

<タリウム事件>謝罪の仕方がまだ分からない | 河北新報オンラインニュース

わーレベル高い。君ワザと演じてるんじゃないかってくらい見事なサイコパス、という感じ。他人の痛みを想像する『能力』がない人たち。そうした欠如は普通の人たちにとっても衝動的あるいは(アルコールや薬物による)酩酊状態でも起こりうるモノではありますが、しかし彼らはそれが常態でもある。それは不作為というレベルですらなくて、むしろ法律用語で言えば「善意の」と言ってもいいほどであります。
一方で、かのナチスの例を持ち出すまでもなく、本邦含む現代社会においても政治的志向が行き過ぎた結果そんなサイコパスな人たちと同じ地平=「あいつは人間じゃないから」という所に行き着いている人たちがちらほら居たりするのは笑えないお話ではありますけど。


ともあれ、「共感能力が欠けた人たち」というのは多くの事例を見る限りまぁ確かに存在しているのでしょう。それは先天的に学習能力や運動神経(そんな神経は無いというマジレスはさて置くとして)が欠けている人たちと同様に。女子大生による惨い犯行というギャップで広く注目されたこの例に限らず、実は刑務所なんかを探せば一杯いるだろう、ともよく言われているお話ではあります。
脳研究が尚も途上な現代世界において、こうして人たちの扱いというのはまぁ難しい問題でしょう。治療すべきなのか、隔離しておくべきなのか、それとも当然あるべき(他の欠陥同様)多様性の一つとして認めるべきなのか。


果たして、彼女が私たちのことを人間扱いしていないのか、それとも私たちが彼女のことを人間扱いできないと思っているのか、色々と考えてしまうお話ではありますよね。
みなさんはいかがお考えでしょうか?