あーたーまかーらっぽのほぉがーユメつめこめるー!

ちゃーらー、


【寄稿】 陰謀論――なぜこれほど大勢が信じるのか - BBCニュース
みんなだいすき陰謀論のお話。

「ウィルソン大統領はサメ襲撃を防止できるはずだったのにと思うことで、自分は楽になる。とすると、そんなことはなく自分が間違っていたとしても、自分の思い違いで自分が受けるダメージよりも、ウィルソンのせいだと思うことで得られる心理的満足感の方が、かなり大きいというわけだ」

結局のところ、私たちは事実に照らして正確でいたいのではなく、私たちは楽になりたい、安心したいのだ。

【寄稿】 陰謀論――なぜこれほど大勢が信じるのか - BBCニュース

概ねこの点で終わってしまうお話ではあるかなあと。なぜ私たちは陰謀論に走ってしまうのか? についてのとても解りやすい解答。


私たちは一度自分の信念に確信を抱いてしまうと、その後何を見ても自分に都合のいいストーリーをそこに見出してしまうようになる。
「アレもコレもアベ政権(あるいは民主政権時代)が悪い!」
なんて人たちは今も昔もネット上にいっぱいいますけども、だからそういう彼らの振る舞いってその歪んだ現状認識云々というよりは、ひたすら正直で単純化された世界観から脊髄反射で何も考えずにモノを言っているだけなんですよね。だってその方が楽なんだもん。
「もしかしたら自分が間違っているのではないだろうか?」なんて、可能性ですらぜったい考えたくなーい! というとても素直なきもち。


こうした構図を考えると、しばしば指摘される「SNSの普及によってより先鋭化する私たち」というのがよく理解できるでしょう。否定材料ではなく一層自分の信じたい情報だけを求めることが容易になるから。
ザ・確証バイアス。
だから個人的には、末尾に(小並感)とか付けておけば解りやすくていいと思うんですよね。そんなお気持ち自体は否定しようがないし、そういうことならしかたないにゃあと同意はできなくても理解はできるから。楽をしたいと願って何が悪い。にんげんだもの、しかたない。
あたまからっぽの方がユメ(陰謀論)つめこめるのだ。



ということでまぁ別に「個人で」そういう振る舞いをすることは別に構わないと思うんですよ。個人的ユメや願望を語っている人にマジレスしてもキリがないし。それほどヒマでもないし。それこそ他人に迷惑を掛けないのであれば個人的にバカなことをするのは愚行権の範疇でもある。
――ここで問題なのは、そして忘れてはいけないのは、それを経済的・政治的な利益誘導につなげる人たちが居る、という点でしょう。
そんな風に安心したい人たちをカモにする人たち。そうした信念を補強するストーリーを提供する人たち。



それすら個人でやっているならともかく、まぁメディアがそれに便乗するようになると地獄一直線であります。陰謀論に個人で嵌まるのと、それを補強するようなニュースを公式が流すのでは別の次元の話になってくる。
「福島の11歳少女、100ミリシーベルト被曝」報道は正しかったか(林 智裕) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
陰謀論に与するようなイエロージャーナリズムなのだと、自覚があってそれをやっているならともかく『社会の木鐸』と自称する新聞のみなさんに言われると途端に冷めたきもちになってしまいますよね。
あの福島の原発事故はほんとうに大きな被害をもたらしたよねえ。
国土という意味でも、原発政策とう意味でも、そしてまともなメディアという意味でも。そりゃ毎年の如く民主主義が死ぬのも無理はない話であります。
正確さよりも安心を。事実よりも(都合のいい)真実を。
でも、こっちもしかたないよね。そういう読者を相手にした方が売れるんだもんね。読者が見たい聞きたいニュースを提供しているだけなんだもんね。

しかし、こうした教訓やメッセージは大きく報道されることもなく、根拠に乏しい「被曝による悲惨な犠牲」ばかりがセンセーショナルに取り上げられる状況が続いてきたのです。

マスメディアの報道内容は大きな社会的影響力を持っています。たとえば、自殺報道がさらなる自殺を増やしてしまう「ウェルテル効果」などはよく知られています。

ところが、今回の件に限らず、原発事故に関する報道においてはなぜか、二次被害に対する配慮があまりにも軽んじられてきました。しかもそのことは、いまだにほとんど問題視すらされていません。

「福島の11歳少女、100ミリシーベルト被曝」報道は正しかったか(林 智裕) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

陰謀論を信じ楽になりたい人たちと、それを食い物にする人たち。
最初のBBCの記事で「陰謀論的な考え方をしやすいという意味では、右も左も変わらない」とありましたけども、上記原発政策だけでなく、右な人たちが聞きたいだろう(それを聞きたい読者を相手にした)人種差別を煽ったりナショナリズムに訴える報道と何が違うのかというと、基本的には構図は同じモノなんですよ。
この両者の共謀においては、そもそも「問題」など初めから存在していないのだから問題視する方がおかしいのである。


かくして世界とは、そんな私たちの共謀でできている。
社会は私たちを支配していると同時に、その私たちがこそが社会を形作っている。シャカイガクの基本であります。


みなさんはいかがお考えでしょうか?